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アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その5>

こんにちは。
皆さん、お元気でいらっしゃいますか?
私はお陰様で今とても元気です。

前回は、アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その4②>「西洋医学と東洋医学」についてお話しました。
アトピー、喘息と共に歩んできた私の人生の、今回は<その5>中学時代~高校時代をお伝えします。

中学時代〜高校時代

前回話が逸れたまま戻ってこなかったので今度こそ

私が小学6年ごろのこと、看護士だった母の同僚の士長さん(当時は看護婦長と言っていた)の娘さんがある都立高校に入学し、その高校がとても素晴らしいという話を連日聞いてきて、私もなんとなくその学校に行きたいと思っていた。

それでさっそくその高校に向けて勉強する、、、訳でもなく、今はこんな成績だけど、中学に入ったらやってやる。みたいな、現実を無視した、変なヤル気だけ持っていた。

で、その「今はこんな成績だけど」が、どんな成績だったかと言うと、、、

⚫︎アトピーの痒みで勉強に集中できない。
⚫︎体育は喘息とアトピーの汗対策で休みがち。
⚫︎音楽は歌と笛、ハーモニカ類は息が弾むので喘息の不安が起きるのか気分的に苦手(黙ってやれるピアノは好きだったけど)

という訳で、成績はオール3

ところがこのオール3には色々あった。
先生によると限りなく2や、もしかすると1に近い成績もあったらしい。でもあまり正直に成績をつけてしまうと可哀想すぎるという事で、先生方の頑張りでオール3という、ありがたいのか何なのか分からない意味が含まれている成績だった。(という話は私が成人式の時に親から聞かされた)

そんな成績でも、行きたいと思う目標ができると人間ってどうにでもなるんだな。
とはいえ中2が終わる頃までは、その学校にとても行ける様な成績ではなかった。

相当頑張らないと、と先生にいつも言われていた

当時成績優秀な子が行っていた塾には行きたくなかった。
だって、そんな成績で行けると思っているの?とバカにされるに決まっていると思っていたから。で、新聞チラシで見つけた塾に行きたいと親に頼んで行かせてもらったのが中3になる春休み

親は私はもうとっくに諦めたのかと思っていたのに、塾に行きたいと言い出したから偉いこっちゃと思ったらしい。

諦めていないなら受からせてあげたいが、それはムリだろう。
でも塾に行って自分の位置を思い知ればさすがの私も諦めがつくだろう。
ということで私を塾に行かせてくれた。

なんて親だ。

入塾テストで最初に入ったクラスは、私の志望校の下のレベル辺りを目指すクラスだったからかなり厳しいスタートだった、、、のだが、何しろ私は長女で上に兄弟がいないのが幸いして、知らぬがほとけで、そのクラスのスタートでイケると思っていた。

イケる!

理由はこれだけで十分なんだってその何十年後かに学ぶことになる。
その後は、中3の2学期にやっと私の志望校を目指すクラスに入ることができた。結果最後までそのコースだった。(高校に入学したら、周りの友達に同じ塾だった人が沢山いたけど、誰とも塾で会った事はなかった。クラスが違っていた。彼らはKSKコースで、それは国立早慶コースなんでした)

公立高校を目指すのに大切な内申は、最後まで体育が3だった。
すごく頑張ったのに
皆勤賞だったのに、
3だった

これは精神的に痛かった。
(都立高校の内申は、主要5教科以外の成績は1.5倍にしてくれたのだが、その対象教科で3が一つでもあるとかなり厳しいという判定)
体育や音楽は子どもの頃の体の動かし方とか、感性とか、その時でないと身につかないこともあるのかなぁと思う。

ほとんど引きこもりの様な留守番生活で、病欠ばかりの子ども時代。
必要な筋肉や体の動かし方は遊びながら身につくのだろうと体験的にそう思う。
私はその時代を大人しく、静かに過ごさざるを得なかった。その影響はあったと思う。

内申は何とか最低ラインを確保し、あとは本番で勝負。
だが私の場合、本番で無事に試験が受けられるか?の不安があった。

試験当日の夜中に喘息発作が出ればアウト。
試験の1週間前を切って風邪でもひくとアウト。

それは、風邪をひくと必ず喘息発作が出る訳で、発作が起きると全身で酸素を吸おうと頑張る。息ができないので全身で息をしようとする行為は大変な負荷がかかる。それで喘息発作が収まると、今度は胸筋やら背筋やら、上半身のあらゆる所に筋肉痛が起きる。

そしてどうしようもない虚脱感と倦怠感。

だるくて起き上がれない。それほど呼吸をするってだけのことにエネルギーを使い果たしてしまうのが喘息発作なのだ。
なので普通の人が一、二日で復活できる風邪も、私の場合は1週間コースになってしまう。

という事で、不安を見ればキリがないくらい私の受験にはてんこ盛りの不安材料はあったのだが、当の本人の私は、ヤレるとしか思っていなかった。何も不安がなかったわけではないが、不安にフォーカスしていなかった。

コレは何事も成し遂げるには大事な要素かもしれない。

でも後に母になって、あれほどまでに自分の事では図々しかった私が、子どもの事では「不安で心配で」となったのには驚き
当時の私の両親もどれほど心配で不安だったかと思うと、本当にありがたく、ギリギリの成績で心配かけてごめんねと思う。

という訳でその後も色々あったけど無事に目指す高校に合格できました

チャレンジのつもりで受けた女子校には落ちました。それもよかったと思う。
合格していたら調子づいて、きっと感謝もない鼻持ちならない人間になっていたと思うから。

卒業式の謝恩会では親たちの嫉妬、嫌味、色々あったみたいだけど、卒業しちゃえば関係ない。(母には嫌な思いをさせた様だが、母も気が強いのでその辺は大丈夫と思う)

高校に行ったら新しい自分になる

そんな理由のないヤル気がまた私の中で起こっていた。
高校は超進学校で、入学したら下から3番目の成績だった。でも受かった喜びで全然気にしない
あれだけ苦手だった運動も、体育が3だったリベンジをしたかったのか部活はバレー部を選んだ。

でもこれが大変だった。
私でなくて周りが…..。

なにしろウォーミングアップで喘息が出て、後は玉拾いでも喘息が出る。バレーにならない。
わたし的には発作のうちに入らず、休めばまた復活できると分かっているが、周囲はすごく心配してくれる….で、やっぱり苦しいので暗い表情になる。怒っている様に見えたらしい(すみませんでした)

先輩や周りの人達が優しかったし、思いやりを感じた。よく秀才は冷酷で、みたいなイメージがドラマなんかであるけど、それは全然当てはまらなかった。

中学時代の方が大変だった。
ちょっと目立つような事があると批判と嫌味の標的にされ、お前なんかと良く言われていた。
だから未だに目立つのが大嫌い

ひっそりと誰も知らないところで自己満足的に何かを達成するのがしっくりくる。
そういう意味では高校は居心地が良かった。みんな普通に目立つ人ばかりだったから私の存在を消せた。

秀才って何でもできるんだな。

勉強はトップクラス
ピアノを弾かせばコンクール入賞レベル
運動もプロに行けそうなレベル
芸術も、とにかく何でもできる

そして思いやりもあって、感じの良い人たち。何にでも興味を持って、何でもうまく行くと普通に思っている人たち。
こんな世界があるんだなぁ〜

それまでは、私は何も取り柄がないとか、取り柄どころかみんなに迷惑をかけるばかりでとか、「できない」を持ち出してはある意味悦に入っていたのが、「え〜、できるよ、やってみたら?」の言葉に包まれる様になった

相変わらず喘息やアトピーの悩みはあったけど、この学校の雰囲気は、そんなことを超越した雰囲気だった。

思った事は叶う

そして叶えた先に新天地が開けている。
自分にとって不都合な事はそのうち消えている。
だから諦めずに願い続けよう。叶えられる事だから願おうとするのかもしれないしね。

そういえば父がステレオ会社の社長と懇意になり、ステレオとクラシックレコードのシリーズを買ってくれた事がある。

共働き家庭の留守番の毎日で、レコードをかけて暇つぶししていた。その時に大好きになった曲がドボルザークの「新世界」たぶん諦めずにいれば、辛いことの先に「新世界」が開けているという私の人生を示唆してくれていたのかも。

また今回も長くなってしまいました

ここまで読んでいただいてありがたい限りです。

アトピー、喘息と共に歩んできた私の人生の、今回は<その5>中学時代~高校時代までをお伝えしました。

本日の富士山。富士山はいつもどっしりと私たちを見守って、応援してくれています。

今日は新月、願い事が叶う日だそう。
素晴らしい一日を


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