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アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その8①>

こんばんは。
皆さん、お元気でいらっしゃいますか?
私はお陰様で今とても元気です。

前回は、アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その7>アトピー、喘息と共に歩んできた私の人生の、アトピーや喘息から学んだたくさんの事だけど、アトピーとかと関係ない高校時代前半のお話しました。今回は<その8①>高校時代 後半をお伝えします。

高校時代 後半

当初は自分のアトピーと喘息の体験を公表するのは抵抗があり(過去の、しかも他人の苦労話を誰が喜ぶのだろうか?とか)、長文なら誰も読まないだろうと始めたのだが(何をしたいのか分からない)、ありがたい事に読んでくださる方がいらして、しかもありがたい感想までコメントくださって、しかも皆さんのコメントにお返事しながら気づきも得て。

とにかく私のタメになっています、ありがとうございます(そっち?)

今回は高校時代 後半 (今ごろですが、前回は前半ということで)
望んで、憧れて、ウキウキで入った高校時代は最高の3年間だった。新しい価値観、新しい考え方、色んな事に気づかせてもらった輝く時間だった。
高校時代に学んだ事、経験した事がその後の人生をより良くしてくれた。
だが、高校生になると少しずつ父母の私への接し方が変わってきた。

それまでは、高校に入るまでとにかく人並みに学校生活を送れる事が最優先だった。

しょっちゅう病欠
しょっちゅう見学
しょっちゅう体調不良

マトモに学校に行ける事だけが目標だったが、憧れの高校生になると部活なんかも始めたりして(しかもかなり激しい練習)、しかもそこそこ勉強もついて行けるようになったりして(クラスの真ん中まで浮上)
なんだ、けっこうイケるじゃん!みたいな。

するとある日母が言った

「高校生活を楽しんでいていいね。だけどね、美佐はアトピーや喘息でたぶん結婚とかなかなか難しいと思う。男の人に頼る事は考えない方がいいと思うよ。自分の身の振り方は自分でできるように。知識は財産だからね」

ということで、要は「結婚なんて憧れは持たずに、一生一人で生きていける力をつけなさい」という親心だったんだと思う。
その時の私は、何も反発する気持ちになれなかった。

自分がどんな風に見られるのか、期待しないクセはついていた。

与謝野晶子の、「やわはだの、熱き血汐に触れもみで」って歌があるけど、女性の柔らかいきめ細かな美しい肌でも触れてもらえないことがあるのに、私のゴワついた色素沈着した肌じゃね〜みたいに、あの有名な短歌をそんなズレズレの視点でみている自分がいたし、自分がかなりズレズレだってことも分かっていた。

なので大学に行く事を視野に入れるようになった。できたら教員とかの資格を取って、自分一人を賄えるようにと考えた。
弟にお嫁さんが来ても、私が迷惑にならないようにしないと。

アトピーと喘息が辛いのは、、、

親切で優しい人には、私の存在が気になって心苦しくさせてしまう。
意地悪で根性悪の輩には、差別や人を見下すネタを提供してしまう。
どっちみち自分の存在は意味がないんじゃないかと思ってしまうことだ。

これはけっこうツラい

結果、無意識で周りの迷惑にならないように行動してしまう。

そういう訳で大学に行く理由は、生涯独身が前提という、何とも言えない後ろ向きな理由だった。

ところが高校3年の春だったかに、バレー部でアタックを打った瞬間に腰が抜けてしまい、担架で運ばれる事が起きた!

その後診断された結果は「おそらくウィルスが入ってしまっている状態だと思うので、悪くすると一生車椅子生活、良くても普通に生活するのは難しい」という事だったそうだ。

私にはただの腰痛ということになっていたが、あの気丈な母の泣きはらした様な顔を見た時に、これは、、、と悪い予感がしたのを覚えている

当然大学受験は取りやめ。

私はただの腰痛のはずなのに受験しなくて良いと言い出した両親に違和感を覚えつつ、受験しなくて良くなった事に単純に喜んでいた。その後何ヶ月か検査ばかりして、最終的に出た結論はウィルスでも何でもなく、誤診だったと判明。

そうしたら急に両親が大学受験できるぞと言い出し、、すっかりお休みモードになっていた私には青天のヘキレキで、いやもうそれから大変でした。
その時に初めて最初の診断のことを教えてもらった。

母の泣き腫らした顔はそれだったのか?

やっぱり大学に行かないと、親には心配かけたし、、そんな気持ちで受験を決めたがなかなかスィッチが入らなかった。
中学の時、高校生になったらこうしてああしてと期待に胸を膨らませていた。

でも大学受験の時はそんな気持ちはなかった。たぶんその違いが結果に出たと思う。

現実にもアトピーと喘息の上に腰痛と左足の慢性的な重だるさ、痺れが追加され、長時間椅子に座っていられないというハンデを背負う事になる。

その年は受験に失敗し(失敗というより、そもそもヤル気がない)、翌年なんとか大学に入学した。

当時は浪人は珍しくなかったから助かった。
2回の受験も祖母がとても助けてくれた。

小さい時から病気がちな私を愛して心配して、支えてくれた。

ここまでこれたのは影になり日向になり支えてくれた人がたくさんいたなぁとその時も思えた。

アトピーや喘息でなかったら、そんな両親や祖父母、病院の先生方、学校の先生や友達にも感謝できなかったと思う。

本当に皆さんありがとう、ありがとう。

【数学の家庭教師の先生とスピリチュアル】

そうそう、高校時代にとても稀有な体験をした。これは次回にお話します。



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