短編集①

Twitterで載せた1ページ小説を、note用に書き直したものです。


時雨人-しぐれびと-


 雨の匂いがして、喫茶店の大きな窓から外を見た。

 少し前まで、あんなに晴れやかだった空に、灰色の雲がかかっている。心做しか店内の空気もじめっと重たくなったような気がした。

 今朝の天気予報では雨が降るなんて言ってなかったから、普通にベランダに干してきてしまった。時計を見ると、針は十六時少し前を指している。今日のシフトは十八時。まだまだ終わらない。チクショウ、と私は心の中で悪態をつきながら、少し雑に洗ったグラスを磨いた。
 そしてふと、思い出す。

(そうだ、こういう日はいつも……)

 綺麗になったグラスを棚にしまって、扉の方を見ると、タイミングよく開いた。
 カラン、とカウベルの音が響く。
 扉を開けたのは、思い描いた通りの人だった。

「いらっしゃいませ」

 すらりと長細い体躯に馴染んだ、銀煤竹のスーツ。柔らかそうな髪を後ろに撫で付けたその人は、枠に頭をぶつけないよう屈みながら入ってくる。右手には、大きな背丈に似合わない小さな傘が握られていた。

 ぽつぽつと、雨粒が窓を叩く音が聞こえ始める。きっと、一時間ほどで止むだろう。

「こんにちは」

 雨に似合わない、柔らかな笑みを浮かべたその人をいつもの席に案内する。

「いつものをお願いします」
「かしこまりました」

 ブレンドコーヒーと、ダコワーズのラムレーズンサンド。いつものように用意すると、「ありがとうございます」と柔らかな笑みを浮かべた。その途端、雨で憂鬱な気分なんて嘘みたいに忘れてしまった。不思議なことに、本当に不思議なことに、雨が上がって虹が架かるみたいに胸がときめくのだ。

 私は緩みそうになる口元をきゅっと引き結ぶ。

「ごゆっくりどうぞ」

 弾みそうになる足音を誤魔化しながらカウンターに戻ると、作業をするフリをしてフロアに背を向けてから、ようやく、思う存分、ニマニマした。

 気持ちが落ち着くと、また店内に向き直す。使った道具を洗いながら、ゆっくりと店内を見回した。
 一人席に座るその人は、いつも暖かいコーヒーを飲みながら本を読む。本は栗皮色の文庫カバーに包まれているから、タイトルは分からない。

 ペラリペラリとページを捲り、時折ダコワーズを挟みながら、砂糖もミルクも入っていないコーヒーを上品に飲み干す。

「ご馳走様でした」

そうして1時間もすると、小さな傘を手に帰っていく。

「また来ます」
「お待ちしております」

 パタン、と扉が閉まった。
 今回も本のタイトルが聞けなかったな、と少しだけ落ち込みながら窓の外を見る。

さっきまで降っていた雨は、ぴたりと止んでいた。


春はどこにもいなかった。

 春はどこにもいなかった。

 視界が霞むほど、激しく雨が降っているせいで、風の音さえ耳には届かない。

 絵墨で染めたような重たい空から、大粒の雨が落ちてきて、全身を濡らす。
 濡れる顔を拭いながら、僕は必死に叫んだ。

「春ー! どこにいるのー!」

 返事はなかった。

「はる、春!」

 どれだけ耳を済ましても、聞こえてくるのは風と、雨が木の葉や柔らかい土を叩く音ばかり。

 このまま見つからなかったら、どこにもいなかったらどうしよう。胸の内側がひんやりと冷たくなる。

 激しすぎる雨風のせいで役に立たない傘を握る指先は、もう感覚がない。まるで凍りついてしまったようだった。

 村の、向かいの家に住むじいちゃんが言っていた。
 春が来なければ、夏も来ない。暖かくならなければ、雪が溶けずらその下で眠っている野菜たちが育たない。川の水も流れない。村は永遠に、冬に、雪に閉ざされてしまう。動物も村人も、皆凍えながら飢えて、死んでしまうだろうと。

 先日、隣の家のおばちゃんが、ご飯がなくて乳が出ないと、母さんに縋るように泣いていた。腕に抱かれた乳飲み子は、指のひとつも動かさず、泣き声どころか吐息さえもう聞こえてこなかった。

 村の端に住んでいたじいちゃんは、風呂場で倒れてたまま死に、頭から流れる血ごと凍りついていた。

 いつもならとうに冬眠が明けて、春の日が差す森を駆け回るはずの動物たちの姿が、一匹たりとも見えていない。

 このままでは、本当にみんなが死んでしまう。

「ごめん、ごめんよう! 僕たちが悪かったよう!」

 叫ぶ声は、すぐ雨にかき消された。雨に負けないくらい、もっと大きな声を出せば届くかもしれない。もっとちゃんと耳をすませば、どこかから春の声が聞こえてくるかもしれない。

 そう信じて、僕は春を呼び続けた。

「花粉が出るから、春は嫌いなんて言ってごめんよう!」

 雨さえ止めば。風さえ止めば。
 けれど、どれだけ叫んでも、春の声は聞こえてこない。

 春は、やってこなかった。


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