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noteを始めた理由

「これまで書いたものは、私がいなくなったら誰にも読まれることなく消えるんだな」と、ある日ふと、思いました。

名も知れず、特別なことなど何もない、平凡な人が積み重ねた毎日は、ただ風に消えた蝋燭の炎が残した煙みたいに、時間の中に消えていくだけです。

幼い頃から、何かを書くのが好きでした。
とにかくいつも、言葉や文章を書いていました。

でもそれは、誰かに読んでもらうためではなく、私自身のためのものでした。ちょっとしたシュミレーション、検証、旅。あくまで、内的な作業として。

誰にも見せることはないし、書いていることを誰かに話すこともない、そう言う種類のものでした。

でも、思ってしまいました。
このままなら、いつかは消えるんだ、と。

音楽は「流す」「流れる」と表現されることがあります。

街に流れる音楽の中にいるのは、川の中にいるようです。耳につくフレーズがぐるぐる頭に流れて、それから逃れられないこともあります。好きな曲が流れていい気分の時もあるし、突然思い出が蘇ることもあります。なんであれ、敏感な人には苦痛もあるでしょう。

noteも川みたいだな、と思います。

あ。この記事いいな、と思っても、次に開いた時には新しい記事に押されるように見えなくなります。次々と流れて行ってしまって、スキ、を押さないと捕まえておけない。

目の前で流れていく川を、飽きず眺めるような気持ちで、noteを読んでいました。せせらぎだったり、大河だったり、濁流だったりと、姿を変えていくその川は、ひとときも同じではなく、私は時に目に留まった言葉を、柄杓や枡で、すくってみている。そんな感じがしていました。

ゆくかわのながれはたえずして、しかももとのみずにあらず。

方丈記、みたいでもあるかも。

PC内部に溜まった言葉は、「削除」を押してしまえば、一瞬で消えてしまいます。それは、何年もの間に存在した「ある時間」が消える、ということです。ながれにうかぶ、うたかたのように。

誰の目にも触れず、いつか確実に消えてしまうそれを、noteの川に、そっと流してみるのもいいかもしれない、と思いました。沢山の本職の方や愛好家の方に紛れて、作者不詳の物語が、そこにある。それも、悪くないんじゃないか、と。

街で流れて来る音楽のように、気づかないくらい自然に言葉を流して、流れて行って、でも私のnoteには私の足跡が残っている。

奇妙で不思議で面白い。

そんなことができる時代まで、生きて来られて良かった。十年前にいなくなっていたら、たぶん、私の言葉は無量の闇に消えていました。

目に留めて、ここまで読んでくださってありがとうございます。すくった柄杓に残った私の言葉のしずくが、もしも誰かの心に小さな漣を残すとしたら、それほど嬉しいことはありません。






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