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理想の美容師さん 後編

 それから2年が過ぎた。

 私はすっかり「Fudemameふでまめ」に慣れ、店長さんにも顔を覚えてもらえた。

 Fudemame店長さんは、常連さんにも決して馴れ馴れしい口をきいたり、懇意だからと特別な扱いをしたりすることがない。
 最初は少しそっけないくらいだが、慣れるとその距離感がベストだということに客が気づく。そんな感じだ。
 その超絶技巧の接客技術はスタッフにも行き届いていて、「大満足」までいかなくても、少なくとも「嫌な思い」がない。 
 美容院において、これは大事なことだと思う。

 私は、Fudemameの店長さんの接客技術に惚れ込み始めていた。

 ある時、ついにフリーペーパー系の予約ページの様子が変わった。  
 SUGOUDE店長が帰ってきたのだ。

 私は、もうすでに2年も通ったFudemameさんに対し少し後ろめたさを感じながらも、どうしてもSUGOUDEに行ってみたかった。

 早速予約をして、当日、店に向かった。

 店に着くまでの道のりも、だいぶ様変わりしていて、「この道でよかったのかな」と、少し迷った。

 迷ったのもそのはず、私は店の入り口を見逃していた。

 見逃すほど、様子が変わっていた。

 え?ここで、良かったよね?

 看板を確かめた。お店をやっているのかやっていないのか、中も少し薄暗い。昔は扉に近づくだけで、看板犬のチーズちゃんが走って来たのに。

 扉に手をかけようとしたとき、中から扉があいた。

 店長さんだった。

 ご本人だったが、まるで別人のようだった。
 インドのヨーギーか仙人のように、染めない髪を伸ばし、髭ものびていた。

 お久しぶりです、覚えていますか、と尋ねたら、覚えていると返事があったので安心した。
 予約をしたから、カルテをみたのだろう。私の犬の名前は忘れていたが、同犬種の犬を飼っていたことだけは覚えてくれていた。

 留守の間、お店を友人に任せていた、という。
 ずっと放浪していた、と言った。

 放浪…?

 確かに、そんな感じの様子だ。

 HPホームページがずっと更新されていなくて、いつ戻られるのかと待っていました、というと、「ああ!」と店長さんは驚いたように言った。「HPの存在を忘れていました」。その様子に私の方が驚いてしまった。かつてはHPでも熱心な仕事ぶりがうかがわれていたのだが。

 更新しておきます、教えてくれてありがとうございます、と彼は言った。

 帰って来たばかりだから、今はリハビリ的に、少しずつ、予約のお客さんだけにしている、という。

 だからその日も店は貸し切り状態で、もうひとりいると言うスタッフさんもいなかった。美容院における施術の、すべての行程を、彼がすべてひとりでやっていた。

 店の中は当時と変わらず懐かしかったが、でも最後に来てから八年以上経っている。あらゆるものが年月を経ていた。
 鏡や、椅子や、壁や、洗髪台が。

 全てお任せします、と、昔のようにお願いして、看板犬チーズの所在を訪ねた。
 予想はしていたが、私の犬と同じ時期に亡くなっていた。

 チーズが亡くなったことが直接の原因ではないと店長さんは言ったが、あるとき、何もかもが嫌になったのだという。

 それで、旅に出たのだ、と彼は言った。

 私は、チーズが亡くなったと聞いた時に、なにか複雑な感情が沸き上がり、ほんの少し涙ぐんでしまった。

 彼はチーズの訃報によって、私が自分の愛犬アサヒを思い出したのだと思ったようだ。
 困ったように、慰めてくれた。

 涙の理由は、アサヒとチーズのことだけではなかった。

 私は長い間、昔と同じSUGOUDEの店であることを期待し、それをあるべき姿として望んでいたのだ。でももう、あの頃のSUGOUDEはどこにもない。そのことが、悲しくなってしまったのだ。

 きっと客には言えない様々なことがあったのだろう。
 そして店を託されたご友人は、彼の才能を惜しみ、彼の店を守って帰りを待ったのだろう。

「辛い思いをして、でも、戻ってこられたんですね。
 店長さんの復帰を待っていた人は沢山いると思います」

 励ましよりも慰めに聞こえるだろうかと思いながらそう言うと、そうですかね、そんなことあるかな、と店長さんは言った。
 その声は、適当なあいづちの響きを伴っていた。
 「食べていくのに、これしかできないので」と、しばらくしてからぽつりと店長さんは言った。

 それほど沢山の話をしたわけではないが、どんなところへ旅をしたのかとか、旅先で食べた美味しいものとか、当たり障りのないことをぽつぽつと話した。
 店長さんは、もともと無口な方だったから、きっとその時も無理して色々話してくれたのだと思う。

 髪型は、想像した以上の、最高の仕上がりだった。

 しかし、お会計をしながら、私は悩んでいた。
 施術中、言おうか言うまいか、迷っていたことがあったのだ。

「あの…実は、爪が当たってて…少しですけど…」

 お会計後、意を決して、恐る恐る告げた。
 そして慌てて、言うの迷ったんですけど、とか、全く気にしていないんで気にしないでくださいね、などと、早口で付け加えた。

 店長さんはハッとした顔をした。
 そして、申し訳ない、と謝ってくれた。
 途中で言ってくれたらよかったのに、と言った。

 途中でなんて、とても言えなかった。
 いやむしろ、私の表情や仕草で気づいてくれるんじゃないかなと、サインは何度か出していた。

 お久しぶりですねと言って私の後ろに立ち、ハサミを持った瞬間、鏡越しに見えた手の爪が伸びているのには、気づいていた。

 マニキュアなどを施した、長い爪の美容師さんは、たまにいる。洗髪の時にかすかに当たって気になる人も、まれにはいる。

 しかし彼の爪は、そう言うのとは、違った。

 私は普段はあまりはっきりものを言わないタイプだ。
 でもこの時は、リハビリ中である彼の今後のために、伝えた方がいいような気がしたのだ。

 本当は、爪の当たり方が「少し」とは言えなかった。
 他の店なら、さすがに途中で言ったかもしれない。
 でも、そんなことを言うのはいかにも「オバサン」だし、なによりも彼を傷つけるのではないかと恐れた。

 ショックだった。

 爪のことが不快だったからではない。

 これまでかつて、SUGOUDEで爪が当たるなんてことはなかった。
 商売人として、経営者として、そこは細心の注意を払っていたと思う。
 少なくとも、昔の店長さんはそんな感じだった。
 声を荒げることは無いが、スタッフに気になる様子があるときは、小声で注意をしていた。染めの範囲をミリ単位で指定していたこともある。

 お店を辞した時点では、素晴らしい仕上がりに満足していたし、店長さんの帰還が嬉しかった。お店や店長さんを応援する上でも、次もSUGOUDEに行こう、と思っていた。

 でも、家につくころには、店長さんとの会話や店の様子などがひとつひとつ思い出され、それを、かつて輝いていた、大勢のスタッフさんのいる活気に満ちた空気とどうしても引き比べてしまい、次第に気がめいってしまった。

 もう、私の知っているSUGOUDEじゃない。
 ただひとつ変わっていないのは、店長さんの技術だけ。

 私は自宅のバスルームの鏡で髪の仕上がりを確かめた。

 実に見事なスタイル。
 流石だった。

 他の誰にもこんなふうにはできない。

 でも…

 またSUGOUDEに行きたいだろうか、私は。

 爪のことを打ち明けたのは、結局、これが最後と思ったからではないか。

 馴染んできていたFudemameのことが思い出された。

 このままSUGOUDEに「乗り換え」て、Fudemameに行かない、という選択肢も、それはそれで、後ろめたく、申し訳ない気持ちがあった。

 その後、なんだかモヤモヤして、私はしばらく美容院に行けなくなってしまった。

 SUGOUDEにも、Fudemameにも行けなかった。

 いっそ、どこでもない、これまで行ったことの無い新しい店に行こうか、と思った。


 しばらく経った頃、ポストを開いたら、新聞に挟まれた葉書が見えた。

 それは、Fudemameさんからの葉書だった。

 少し足が遠のいた、そのタイミングを見計らった接客技。

 私のように白髪の中年女性やショートカットを好む人というのは、美容院にとっては上顧客だ。特に白髪は、その範囲が多ければ多いほど、1ヵ月~2か月ほどの間に、必ず髪を染めに来る。「コンスタントにお金を落とす客」なのだ。

 だからと言って、このタイミングでの直筆葉書作戦は、どんなお店にもできる技ではない。しかも、達筆とは言えないまでも味のある字で、DMの枠を超えた簡潔だが丁寧な文章だ。

 実際にすべての葉書を店長さんが書いているわけではないかもしれないが、少なくともこのときは、ひどく心に響いた。

 結局私は、それからずっと、Fudemameに行っている。

 SUGOUDEの店長さんは、爪が原因で来なくなった、と思っているだろう。
 間違いではない。が、それだけでもない。

 きっとあの店長さんのことだ。
 あの後、同じことはないはずだ。

 おそらく、私の期待が、膨らみすぎていた。
 以前のお店を知っているだけに、変化をうまく受け止められなかったのだ。

 そして年月は、私をすっかりFudemameに馴染ませてしまっていた。


 あれから感染症流行の煽りは美容理容業界を直撃した。

 どこのお店も、感染症対策に追われ、いろいろなシステムが変わった。
 マスクをしながらの接客や、換気や仕切りや消毒や。

 あれからSUGOUDEはどうなったのだろう。
 一度だけ、HPを見た。
 少しだけ、更新されていた。

 いろんな意味で、もう、あの店に行くことはできない。

 唯一つだけ言えるのは、私にとってこれまでで最高の、理想の美容師さんは、かつてのSUGOUDEの店長さんだった、ということだ。

 リハビリを経て、店長さんに良い変化が訪れているといいな、と思う。
 働く喜びを新たに見出して、また仕事を楽しめていますように。そして、新生SUGOUDEが繁盛していますように。

 今はそう、心から願っている。



 前編はこちら。






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