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読書ブログは読まれない

 某プラットフォームでブログを書いている。

 始めたのは1年ちょっと前だ。当初は笑ってしまうほど「読まれない」ブログだった。内容も非常にマイナーでマニアックなうえ、2500〜5000字程と長い。そして読み手が知り合いだけだった。

 初めてのブログで、ブログというものが何かもよくわからないまま始めたので、手探りのスタートだった。「一般に公開」を押すだけで全世界の人が私のブログを見るのだと思っていたから、クリックひとつするのも緊張して大騒ぎだった。

 おぎすシグレさんのデビュー作『読んでほしい』は、「はじめての小説を誰かに読んでほしいのだが、読んでほしいと言い出すことができない懊悩」を描いた作品だ。小説や文章を書く人が誰もが一度は味わう感情ではないかと思う。読んでほしい。しかし恥ずかしい。酷評されたら絶望してしまうだろう。まずは優しい人がそっと読んでみてくれないだろうか。読んでもらって、どうだったか聞きたい。聞きたいけれど、本音を聞くのは怖い。でも読んでほしい。以下同文。

 おぎすさん自身のことでもあろうが、この小説はあくまでも架空の主人公が、滑稽ともいえる「読んでもらう活動」を展開する話だ。紆余曲折の末、結局最初に読んでもらおうと思った奥さんに最初に読んでもらえることになった(だろう)ところで話は終わる。

 ちなみに、私の場合は夫はまったく興味を示さず、読んでくれなかった。それを友人に言ったら「私も読まない。夫が読んで、って持ってきても読まないな」と言った。そうなのか。そういうものなのか。なぜなのかその理由を聞くのがこわくて聞けなかった。私は真っ先に読みたいと思うタイプだから、その返答に驚いた。驚いた自分に驚いた。「身内なんだから読んでくれて当然」という気持ちが自分の中にあったことに気づかされたからだ。

 そうはいっても、こっそり書いた小説はともかく、ブログは全然読まれないと悲しい。私は何人かの知人に、ブログを始めたんだ、と話した。

 少なくとも、私が読んでほしいと願った知人は本当に心優しく良き人々なので、皆さんいちどはブログを読みに来てくれた。中には「楽しみにしている」「面白いね」と言ってくださる方もいて、とても嬉しかったし励みになった。実際、そのまま読み続けてくれている方もいる。

 「読まれない」のは当然のこと。当初私には万人に読まれたいという願望がなく、むしろ「恥ずかしいからほんの一部の人だけが読んでくれたらいいや」という感情が勝っていた。検索にも載せないし、SEO対策なんてする必要も感じなかった。そんなものが存在することすらよくわからないままだった。

 しかしさらに当然のことながら、知人が「ブログ、みたよ」「みらいに、そんな趣味あったんだね」と見てくれるのは最初の1回。多くてもせいぜい数回。それ以前に「ありがとう、いつか読んでみるね」とやんわり読むこと自体を断られることもあった。

 それもまた当然のことだ。人には様々な事情がある。仕事や子育て、介護に追われてそれどころじゃない人もいるし、文章を読む習慣がない人もいる。目が悪いなど、身体の事情で読むことに苦痛を感じる人もいる。

 そんな中、いっぽうで、善意で無理をして読み続けようとしてくれる方がたがいて、彼らの重荷になり、負担をかけてしまっていることが、逆にだんだん心苦しくなっていった。私から連絡がいくと「やばい。ブログ見てないや。ブログの話するだろうなぁ、困ったな」と思うのだろうか、などと思ってしまう。そんなことを自分から言ったことはないつもりだが、「もしかしたら話題にならないよう避けられてるかも」と思うことも、実際あった。

 なるほど、知人にブログのことを話すのはリスキーなことだったのかと、今更思っても後の祭り。こちらは1度でも読んでくれたら嬉しいなという軽い気持ちでも、相手は「読まなきゃ」という強迫観念を感じてしまっているかもしれない。すっかり忘れてくれて構わないし、大半は忘れてしまうと思うのだが、義理堅い人には苦痛を与えてしまうことになる。

 リアルな人間関係を壊してまで続ける意味がない。このままフェイドアウトするか、検索に載せて知らない人に見てもらうか、という選択を迫られ、結局オープンにする道を選んだ。もし、私のブログに対するモチベーションに本格的にエンジンがかかった瞬間があるとすれば、この時だったのかもしれないと思う。

 そこからは少しずつ、会ったことの無い方が私のブログを読んでくださるようになった。なるほど、読書猿さんの『独学大全』に「同じ本を読む人は遠くにいる」とあった通り、遠方には好んでくださる方もいるのだ、と実感した。

 その状況に古参の知り合いはホッとしたように、ひとり、またひとりと、読むのをやめていった。「みらいよ、よかったね。これで私も安心だ」と、まるでこれまで辛抱強く見守ってくれていた守護天使が役目を終えて光の中に消えていくがごとくに。

 初期の頃、ブログを読んで私を支えてくださった方には、感謝してもし足りない。本当に、まさに守護天使だったと思う。あの時温かく見守ってくれなかったら、今私はnoteに投稿しようなんて微塵も思わなかったに違いない。

 が。門戸を開いてより多くの人の目に留まるようになった(つまり検索に引っ掛かるようにしたのね)からと言って、読者が急に増えるはずもない。いや実際、人気ブログとして急上昇、などということを自分自身が望んでいるわけでもなかった。正直、どのあたりを目指しているのか、自分がいちばんわかっていなかった。

 それでも少しずつ読んでもらえるようになったことで、ひと桁だったフォロワーが十倍以上になった。何度も見に来てくれる方や、コメントをくださる方も増えた。やっぱり嬉しい。その魅力に、どんどんハマっていく。

 しかし。しかーし。

 私がブログで書きたいこと、というのは「日常の面白い出来事」や「時事や季節の話」や「写真いっぱいの旅行記」や「美味しそうなお料理レシピ」といったものではない。

 読んだ本、好きな本、作家さんのこと、たまに音楽やアニメ、ニッチなテレビ番組や映画の話。基本的に「読書」が中心で、時事ネタは避けている。

 読書ブログは読まれない、ということは、始めて半年もしないうちにしみじみと実感した。私の文章の稚拙さの問題もあるが、そもそも「読書感想文」や「考察」というものに需要がないのだ。私自身がそのジャンルを読むのが好きなだけで、たいていのひとは、別に読まなくてもいいものだ。

 視ようと思っていたけど見逃していたドラマや映画の考察などを見て、鑑賞する手立てにする、ということはある。1時間ドラマや映画を1本視聴する時間を短縮するメリットが存在する。しかし本に関してはそんなメリットが、あまりない。感想や考察を読むくらいなら、当該の本を1冊読む方がいい。考察を先に読むことで、せっかくの自分が読む楽しみを邪魔されることすらある。

 感想文や考察というのは、自分がすでに読んで内容を知っていて、他の人の考えが知りたいときや、その作者や著者、本の内容によほど興味がない限り、読む気が起きないものだ。実際、自分のブログで最も読まれるのは、ブログの運営が提示するテーマにそって雑記を書くときぐらいで、本の話になると急激に読み手が減る。だいたい、考察と言うのは長いものだから、読むのに時間もかかる。さらに「感想文」の「感想」は抱きにくし書きにくい。つまりコメントもしづらい。

 では読まれる読書ブログ、あるいは書評とはどんなものか、というと、当然ながら著名人が書いたものだ。よく知る有名な人物、たとえばアーティストや俳優さんやモデルさん、作家さんや大学の先生などが書いたものは、「あの人はどんなふうに読んだのだろう」「あのひとが面白いと言うのなら」と興味がわく。彼らの私生活が垣間見られるのも興味深いし、彼らをもっとよく知る手立てとなる。

 証拠に、私の母は、娘のブログの話はしないが、雑誌に載っている著名人のエッセイなどの話はよくしてくれる。そんなものだろうと思う。

 読書ブログに限界を感じ、迷走を初めた私は、書く場所を増やしてみることにした。他のプラットフォームでも書いてみることにしたのだ。その一環で、noteも始めた。noteでは匿名でどこまで書けるかわからなかったが、自分の経験などをもとに書いてみることにした。

 noteを始めたばかりのころは、ブログよりもはっきりと反応があることに驚いた。誰かが見てくれる感じが強い。スピードも速い。それだけに、ブログよりもいっそう、スキやフォローに敏感になった。

 右も左もわからずnoteの世界に飛び込んで、スキとフォローをしてみたが、どうもよく勝手がわからない。フォローをしてくれた人が次も読んでくれるとは限らないし、自分も相手の次がキャッチできないことが多々ある。それに、一番驚いたのは、フォローを外されることが頻繁にあることだった。

 今ならそれが、noteを始めたばかりの私の不徳の致すところだとわかるが(スキやフォローをしてもらった方のnoteを訪ねたりすることを思いつかなかった)、当時は、あっそうか、noteというのは、まずはとりあえずフォローし、その後気軽にフォローを外すところなんだ、と勝手に解釈してしまった。

 そのため、黒歴史を告白するようで躊躇われるが、最初の頃は、すぐにフォローしたり外したり、ということをしてしまっていた。申し訳ない。

 そのうちに、どうも、そういうのが当たり前ではないらしいことに気づいた。みんな、真剣に書いているのだ。簡単にフォローをしたり外したりしたら嫌なはずだ。気軽に考える人もいるかもしれないが、自分は嫌だ。嫌なことはやめよう。やっとそう思った。

 そして「ビュー」というプレビュー数もこれまた、心をかき乱す。こんなに見てくれる人がいるのに、スキは押してもらえない、とへこむ要因になる。正直、未だに慣れない。

 とにかくそれでもnoteは非常に反応がよく、手ごたえを感じた。しかしそのことが逆効果となり、私はさらにさらに多くの人に読んでもらいたくなってしまった。

 私は呼吸するように、水を飲むように、常に文章を書いている。書かずにはいられない。

 紙のノートやWordに書いていたものが、誰の目にも触れず消えることが、ただ、残念だなぁと思っていた。本を出したいとか、作家になりたいとか、子供の頃は確かに夢見たが、それが現実に今望むことなのかどうか、と言われると、わからない。

「ただ消えるだけの文章だから、誰かに見てもらいたかった」という私の目標は、ブログやnoteですでに果たされてしまっている。この先、具体的な目標もなく書き続けていいものか、と、最近思う。これ以上書いても、読む人には、この人は何のために書いているのだろう、という疑問を持たれるだけけなのではないだろうか。

 いや、あの。ただ、書きたいんで。

 というのは、もちろんそれでもかまわないが、読まれないことを前提にしなければならないだろう。「もっと読まれたい」と思うなら、それだけでは駄目なんじゃないか。矛盾が心をかき乱す。

 先に書いた、「善意で無理をして読み続けようとしてくれる方がた」「重荷になり、負担をかけてしまっている」人の代表が、実は父母だ。

 身内が書いたものをなんとかキャッチアップしようとしてくれる。どうでもいい記事をスルーする、ということができない。というか、高齢の父母にとってはどうでもいい記事しかない、といってもいい。にもかかわらず、義務として追う。これは辛い。

 少なくとも、私が書きたいと思うことが、父母の喜びにはなっていないことだけは確かだ。

 私にとって書くことは生きることだった。ずっとそうだった。ただそれを生業にしたいとは思わなかった。そんなことができるとも思ったことが無かった。それでも真似事ができる時代になった。嬉しくて、親しい人を巻き込んでしまった。

 たぶん最初は、私は私のいちばん身近な人に、楽しんで欲しかっただけなんだと思う。半生を振り返って私にできることは、これしかなかったからだ。ところが実際には、私の喜びと、身近なひとの喜びが一致しない。私が書いても相手が喜ばない。苦痛しか与えていない。それが苦痛になってしまっている。そして言葉を重ねれば重ねるほど、遠ざかる。距離が近い人ほど、遠くなっていく。

 最近、朝ドラ『カムカムエブリバディ』を見ていて思う。

 私にたったひとつできることが「おはぎを作る」なら母は喜んでくれるのかもな。

 ドリアン助川さんの『あん』で、主人公千太郎は甘いものが嫌いなのに、わけあってどら焼き屋で働いている。あんこ嫌いな千太郎に「うまい」と思わせたのが、アルバイトさせてほしいとやってきた徳江さんのあんこだった。

 嫌いな人を好きにさせるほどの妙技。文章にもそれが言えるのかもしれない。プロとアマの違いはそんなところにあるのかもしれない。そういう意味では私はまさにアマチュア。父母の好きなものさえ作れない。

 しかし、相手の求めるものと自分がしたいことが一致する、ということは、人間社会においてもまあ、とことん難しいこと、ではある。結局、エンタメもビジネスもそこが基本中の基本なのかもしれない。

 そんなわけで今は、どこかに妥協点がないかと、考えている。私は書くことはやめられないし、これしかできることがないのには、変わりがない。書きたいと思うことがたくさんあるし、自分の書きたいことには熱が入る。読書ブログも書き続けたいし、沢山のひとにも読んでもらいたい。そのいっぽうで、父母が喜ぶものや、それをきかっけに沢山話ができるようになるものが書きたい。

 どうも欲張りになっていていけない。すべてを一致させることができたらよいが、それはとても難しいことだろうと思う。

 もうすぐ、1年が終わる。

 今年私のnoteやブログを読んでくれた方々に厚く御礼申し上げるとともに、新しい年に向け新しい展開を考えつつ、今年の振り返りと来年へ向けた抱負にしたいと思う。














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