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freestyle 5  Perseverance

 我慢にも色々な種類があると思う。

 たとえば頭痛。片頭痛持ちの方は市販の解熱鎮痛剤による痛みの寛解は日常茶飯事かもしれないし、生理痛の辛い方もそうかもしれない。歯の抜歯後は歯科医が解熱鎮痛剤をくれる場合もある。昨年の予防接種後の副反応にしてもそうだ。

 「無理に我慢しなくていい痛み」というのは確実にあって、現代人ならば大なり小なり、現代の医療によって薬剤の恩恵に預かるということはある。西洋の薬にしろ、東洋の漢方にしろ、よく効く薬のある現代に生まれて良かった、というのは、病気をしたり、辛い痛みを味わわない限り、普段はあまり考えないことかもしれない。

 医療ドラマで昔「仁―JIN-」というのがあった。あれはもし幕末に現代的医療の知識があり、ペニシリンが存在したら、助かる命が沢山あった、というひとつの実験的な物語ファンタジーだった。現代医療は、当時なら「我慢しなければいけない痛み」を和らげるだけでなく、命まで救うことができる。

 ちなみに、まだまだ情報の浸透と理解が足りないのだろうな、と思うのは、出産時の無痛分娩だ。おそらく、経済的・医療環境的な問題を別として無痛以外の出産が「称賛」されるのは日本くらいなのではないか、と思う。普通と無痛、選べる状態なのは好ましいではないか、と思うのだが。痛みを和らげることに「自然でない」という理由で攻撃的な言説があるということには、若干の違和感を感じる。ここには「我慢することに美徳がある」という暗黙の空気があるのではないか、と思う。

 「我慢することが美徳」という空気は、身体的なこと以外にも、過去にはいくらも存在した。戦時中は「欲しがりません勝つまでは」だったし、ひたすら姑に仕え、家や子供のために自分を犠牲にする主婦が良妻賢母として称賛される時代もあった。現代はさすがにそこまでではないにせよ、我慢することは「偉い」「尊い」ことで、我慢せずに自分の目的や欲望に忠実に生きる人には風当たりが強かったりする風土は、まだ残っているように思われる。

 ツムラさんが「我慢に代わるわたしの選択肢」というコンテストを開催するという記事を目にしたとき、思わずうーん、と悩んでしまった。

 私は結構長い間、ツムラさんの漢方のお世話になっている。婦人科系ではいわゆる「未病」の状態の症状に悩まされてきたので、漢方を処方されることが多かった。

 結婚したばかりの頃、今は亡き夫の母に「婦人科や心療内科のことは、辛い時に我慢してはだめよ。今はいろいろな方法があるのだから」と言われたことがある。義母も様々な悩みを抱えていた経験があり、何かの話のついでにそうアドバイスしてくれたのだった。

 当時はまだ私も若くて、他聞に漏れず何よりも婦人科の内診が嫌だった。行けば内診や検査が行われるだろうし、そう思うだけで「たいしたことがない、我慢すればいい」程度の症状で婦人科を受診するのは躊躇われ、二の足を踏んでいたのだ。「辛い時は我慢してはだめよ」と言ってくれる経験者の言葉は背中を押してくれた。

 その後は躊躇わず受診する様になり、当帰芍薬散や加味逍遙散などの漢方によって症状が少し楽になった。ちょっと風邪気味の時にはお守りのように葛根湯を飲む。本格的に病気をしたときは西洋医学の薬によっても救われてきた。自然由来でないからとか、痛みに耐えることが美徳だと言って、やみくもに薬を忌避したり、極端な話になると麻酔なしに手術をするなんて、私はごめんだな、と思う。

 だから確かに、そういった「しなくてもいい我慢」はある、と思う。代わりになる選択肢があるならば選んでいいとも、思う。しかしながらこの世には、人間には、「しなければいけない我慢」もあるのではないか、と思うのだ。そしてその「しなくてもいい我慢」と「しなければいけない我慢」の境目や境界が、少々曖昧な「我慢」もあるんじゃないかな、とも。

 だからこの「我慢に代わる」というテーマを目にしたとき、単純に「辛い時は、薬や、話を聞いてくれる誰かに頼っていいんだよ」という話では到底終わらない気がして「うーん」と唸ったのだ。

 眠いからと言って毎日遅刻や居眠りはできないし、お腹が空いたからと言って就業中に食べてばかりは問題だ。この世が性衝動が抑えられない人ばかりなら男女ともに落ち着いて外を歩けないだろう。思いついたことを片っ端から口にしたら、誰も一緒に仕事をしたいと思わなくなるに違いない。以上のことをなにかひとつでも我慢できなければ、普通に考えて会社はクビだ。人はみな、欲望や衝動を「我慢」して生きていて、「我慢」することで社会が成り立っている。

 まったく「我慢」しなくても、「我慢」ばかりでも、心身は、社会生活は、損なわれてしまう。

 ならば代わりに、というのはつまり「紛らわす」ということでもあるだろう。痛い時に薬を使う、というのはそれが根治治療ではない限り「痛みを紛らわす」ということだ。ネガティブなほうに集中しないように、ほどよく「気を逸らす」のは良いが、行き過ぎるのは、それはそれでよくない。

 上司に対して不満を抱えている場合の「我慢をしない」には「逃げる(辞める)」「直接上司に言う」「代わりに何かをする」といったいくつかの選択肢がある。辞めてしまったり、上司に直談判したら今後の生活に支障が出る可能性があるが、「代わりの何か」をして「ストレスのはけ口を求め」て「気を逸らす」ことは、より穏便で波風が立たない、いい方法に思える。しかし問題は解決しない。自然に解決するような種類のものならばいいが、いつかはまた同じ問題に直面しなければならない。

 我慢を紛らわすために行った「代替行為」に中毒性がある場合、アルコールやギャンブル、ゲームに耽溺したり、買い物や性行為、下手をすると薬物に依存したりすることもある。

 つまり、我慢が「必要」なときと「不要」な場合がある、ような気がするのだ。その見極めがとても難しい、と思う。

「今日も遅刻したね」
「昨日眠れなくて」

 昨年来の感染症対策に翻弄される学校生活に馴染めず学校に行けなくなる子もかなりの数いるようだし、生活習慣が乱されて体内時計が狂ってしまっている子どもも多い。身体的・心理的な問題を抱えていたり、当人が心折れていて毎晩不眠に悩まされている場合、上記のような場面での叱責は命に関わることもある。

 逆に単に友達と飲み歩いていて毎晩就寝が遅く、朝起きられない、という場合なら社会人としてはやはりある程度の叱責や罰則は免れない。責任ある立場なら遅刻常習犯に悩まされて自分の胃に穴があくこともある。我慢できない人に我慢させられるケースだ。

 社会そのものに「無理をしない」「我慢をしない」体質がしみ込んでいる国もある。日本ほど休暇の少ない国はないし、同調圧力による強制も強い。しかしそれが功を奏してか、「マスクをするという我慢ができない国」にはない、感染対策上の強みがあったりもする。

 いったい、現代社会においては、誰がどこまで我慢するのが適当なのだろうか。果たして、どんな我慢もせずに明るく朗らかに生きていくユートピアみたいな道はあるのだろうか。

 仏教には六波羅蜜という教えがあり、その中に「忍辱にんにく」がある。解脱に至る修行の道筋を示した布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六波羅蜜が、実はステップバイステップなのだと教えてくれたのは、太極拳の先生だった。先生は道と言うのはすべからく段階なのだという説明の時にその話を持ち出したのだったが、それまで私は、それらはひとつひとつ独立して存在していると思っていて、パズルのピースのようにすべてを揃えて完成させるイメージを持っていたから、そうではなく、段階なのだと知ったとき色々と腑に落ちた。

 布施というのは他人のための気持ちを持つということだ。持戒は自分をコントロールし、決められたルールに従うということ。その後に、忍辱がある。忍辱は困難に耐え忍ぶことだが、そのためには「内省」が必要だ。他人のための心の上に、周囲と調和しながら自分を律し、そのうえで振り返る中間地点だ。それはさらなる自己認知、メタ認知だ。客観的に自分を見つめる。自分を殺すことでもないし、周囲を責めることでもない。徹底的に内省した後はそれを、「精進」=続けていく。

 つまり「忍辱」は我慢ではなく、むしろ我慢は「布施」「持戒」のほうにあるということだ。自分のことばかり考えてとらわれている人は「忍辱」にすら到達しない。我慢は成長の礎なのだ。私は仏教徒ではないが、この六波羅蜜の教えには感銘を受けている。なるほどなぁ、と思う。

 終戦の時、玉音放送をほとんどの人がわからなかった、という。よくドラマや映画で「耐えがたきを耐えしのび難きをしのび」というセリフだけが取り上げられるのは誇張ではなく人々がそこしか実感できなかったからではないかと思う。当時の、国家の無理強いという未曽有の困難に対する我慢に「我慢なんてしなければよかったのに」と言える人が果たしているだろうか。やむを得ない我慢も存在する。

 たとえば昨年大ヒットした『鬼滅の刃』の主人公、炭治郎は妹・禰豆子を救うために強くなろうと必死に修行をする。二十四時間全集中など滅多なことでできることではない。そのためにたくさんの我慢をする。闘いで傷も負う。「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」というセリフや、禰豆子の竹をくわえた姿など、あの物語には言葉にしないまでも我慢するシーンが多い。その「現代には失われつつある我慢」が過剰な美学や称賛につながってしまうのは良くないかもしれないが、やはり「我慢すべき場面はあり、それが成長につながる」というメッセージは特筆すべき点だと思う。

 そういうわけで、今回のこのテーマ。「ため込みすぎてポキリと折れるぐらいなら、我慢しすぎないで」という内容のことを書きたかったのだが、書いているとどうしても「必要な我慢はある」という文脈になってしまう。なんだか非常に本意ではない。少なくとも主催者の望む内容ではない。

 もちろん、我慢が「よい」とは思わない。辛い時というのはある。性格的に我慢しすぎてしまう人ももちろんいる。どうするか。逆境に耐えることが、その後の成長に必要なステップだと思うしかないのではないか、と思う。

 私はかつてそれを「運の貯金」と考えていた。今は辛い。悲しい。もがき苦しんでいる。けれどもそれは運を貯金しているということで、新しい展開が見えたときは運が向くこともあるだろう。運を簡単に使い果たしたら、そのあとは今よりもっと辛いかもしれない。

 やはりどこかに希望がないと、人は頑張れないのではないか、と思う。痛みに対する薬は希望だし、そうやっていつか運が向くと信じるポジティブな考え方も希望だ。今はだから、我慢は希望とセットで、と思っている。

 それも、私が半世紀も生きた今だから言えることで、我慢する必要のある時を見極めるには、経験も必要なのだろう。テーマには反してしまうようだが、痛み以外のことに関しては、「代替」という方法はほどほどにした方がいいのではないか、とは思う。ごまかしているうちに、代替に依存したり、耐えどきがわからなくなる、と言うことがあると思うのだ。

 昨年夏に打ち上げられた火星探査機の名前は「Perseverance(パーサヴィアランス)」。 「忍耐力」「不屈の精神」という意味だ。公募によって決められたという。最初にこれを聞いたとき、探査機の名前としては明るさがないと感じた。どうしてこの名前がついたのか、不思議だった。調べたところ、この探査機には火星に生命がいるかどうかを探るサンプルを収集する目的があるのだが、重力の大きな火星からは自力で飛び立つことはできず、そのために次に有人探査がくる2030年代まで過酷な環境の火星でひたすら仲間が来るのを待つしかないのだという。まさに「忍耐」に相応しいのだった。

 宇宙開発という人類の悲願、希望のための布石である「Perseverance」。やはり我慢は希望とセットだ、と思う。















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