見出し画像

現在進行形で喰らい続けている【母性/湊かなえ】

先日、湊かなえ原作小説『母性』の映画を観ました。
軽いレポ記事です、以下ネタバレを含みます。

作品概要・公式サイト


あらすじ
女子高生が自宅の中庭で倒れているのが発見された。母親は言葉を詰まらせる。「愛能う限り、大切に育ててきた娘がこんなことになるなんて」。世間は騒ぐ。これは事故か、自殺か。……遡ること十一年前の台風の日、彼女たちを包んだ幸福は、突如奪い去られていた。母の手記と娘の回想が交錯し、浮かび上がる真相。これは事故か、それとも――。圧倒的に新しい、「母と娘」を巡る物語(ミステリー)。

湊かなえ『母性』│新潮社


はじめに


『母性』のトレーラーが発表された頃、戸田恵梨香さん主演の映画?!とめちゃくちゃ驚いたのを覚えています(私が好きな女優さんの一人)
湊かなえの小説はそれほど詳しくないのですが、作品名でもある母性というテーマに死ぬほど惹かれ、イヤミスの女王が描く母の形ってどんなものだろう?と深く興味を持ちました。

鑑賞後、いざ感想を書こうと思ったのですが…
正直喰らいすぎて、良い意味で放心状態というか、狼狽していました。
何から語ればいいのか、この作品の真意は何なのかと考える日々。登場人物に自己投影しすぎたのかもしれません。
その後、ネットで『母性』のレビュー記事を片っ端から読み漁りました。
他者の解釈・考察を自分の中に落とし込みながら自分の考えと照らし合わせて、ようやく自分なりの感想?がまとまってきたのでした。

そして記事を書き始めてから約2ヶ月後の今、ようやく公開に至っています。


感想(ネタバレ有り)


母という存在

この映画には母という役柄が複数人登場します。

  • 母・ルミ子(戸田恵梨香)

  • ルミ子の実母(大地真央)

  • ルミ子の義母(高畑淳子)

この母たちの演技がまーじですごい。そして本当にはまり役。
それぞれの母の狂気性が、物語を思わぬ方向へ展開させていきます。
皆さんそれぞれ素晴らしかったのですが、特に高畑淳子さんの鬼気迫る演技が「本物」すぎて圧倒されました。


実母への異常なほどの執着

ルミ子の実母はまるで絵に描いたような聖母です。その名の通り、全世界の母の模範ともいえる優しさと強さを兼ね揃えています。
そんな聖母に育てられたルミ子。惜しみなく愛を受け、健やかに育ったかと思われたのですが…その愛情は、最終的にルミ子をパラサイトシングルにしてしまいました(作中の時代背景は昭和後期くらいっぽいので、この表現が正しいかどうかは微妙)
ルミ子が結婚して子どもを産むことになったのも、『聖母が喜んでくれるなら』と思ったからです。
全てが聖母中心に動くルミ子の世界では、聖母に喜んでもらうことが最大で唯一の存在意義なのでした。

現代のステレオタイプに当てはめると、子供が母親に深く執着するのは機能不全家族である場合が多いです。
しかしルミ子と聖母の関係性は一見すると良好で、互いに愛し合っているように見えます。
この「完璧さ」に穴があるのかもしれません。
作中では描かれていないルミ子の幼少期、母子の間で何があったのか非常に気になります。

母と娘の歪な関係性

ルミ子の娘である清佳(永野芽郁)は、祖母からの無償の愛と母からの有償の愛、どちらも受けて育ちます。

ルミ子が当時5才の清佳と聖母のとあるやり取りを見て突然お弁当箱を落とすシーンがあるのですが、あの瞬間の「あ、これ確実に壊れだしたな」感がヤバい。
衝撃的な場面に遭遇したとき全てがスローモーションに見える現象ってあるじゃないですか。あれが見事に映像で体現されています。
このシーンはトレーラーでも用いられており、娘と母の埋め難い溝や異常性を視聴者に印象付けた重要なシーンだと思います。
清佳は次第に、母からの愛情を求めずにはいられなくなってしまいます。しかしながら、ルミ子の愛情が清佳に注がれることはありませんでした。

そしてある日事件は起きます。
自宅で火事が発生し、寝室に聖母と清佳が閉じ込められてしまいます。ルミ子は必死に聖母を助けようと試みますが、結局助かったのはルミ子と清佳だけでした。
この事件をきっかけに、物語の深みが更に増していきます。


認めないけど、認められたい

自宅を火事で失って以降、ルミ子達は義母の家に住まざるを得なくなります。

ルミ子は清佳に対し『もっと目上の人を敬い、常に周りから気に入られる人間でいなさい』的なことをずっと教育し続けていました。
清佳はその教えを守っていたのですが、義母からモラハラを受け続けるルミ子の姿に耐えかねて、ついに義母に反抗してしまいます。その光景を見たルミ子は大激怒。
『どうして目上の人を大切にできないの?今の私たちが在るのはお義母様のお陰なのに!』
と、まるで汚物を見るような目で清佳をあしらい、清佳が寝ている間にその身体を殴るという……とんでもない毒親ムーブをかまします。寝ている間に殴るのはガチなんよ。

ここでふと、彼女たちの愛情が全て一方通行であることに気付きました。
そしてそれは単なる愛情ではなく、承認欲求、憎悪、自尊心など様々な欲情を孕んだ不純なものであると感じました。

  • ルミ子→義母

  • 義母→自身の娘

  • 清佳→ルミ子

これ、どれも母と娘の関係なんですよね。しかしながら、所謂「親子愛」なるものは見受けられません。
何かを捧げて、その代償に愛してもらう…そんな自己犠牲的な愛でいいから、愛されたい。認められたい。
『母性』という題なのに、一体どこに母性があるのか…母性とは何なのか…そしてどんどん分からなくなる母性の沼。


自分は母か、それとも娘か

作中で、この世の女性は「母か、娘か」のどちらかに分類されると説かれています。
母は愛を与え、娘は愛を受ける。簡単に言い換えると与える側か受け取る側か、みたいな。
そしてこの2択こそが『母性』の正体であることが明らかになります。

この作品は『母の真実』と『娘の真実』を観測する第三者(=視聴者)目線で進んでいきます。
※原作では『母、娘の視点』という表現で描かれている

そして終盤に『母と娘の真実』を目の当たりにするのですが…ここで初めて、ルミ子には『母性』が無いことが判明します。
「えっ、清佳の母なのに?今まで育ててきたのに?」と一瞬困惑しますが、それ以上でもそれ以下でもないのです。

モヤモヤしたのでggってみたところ…

母性は,本能的に女性に備わっているものではなく,一つの文化的・社会的特性である。したがって母性は,その女性の人間形成過程,とりわけ3~4歳ころの母親とのかかわりによって個人差がある。

母性(ぼせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク


子供を産み育てる立場になったとしても『母性』は必ずしも芽生えるものではないようです。
つまり清佳は、ルミ子が全く持ち合わせていないものをずっと求めていたのです。
愛の与え方を知らない、そもそも与える必要がない、だってルミ子は今までもこれからも「娘」だから…みたいな。

これが少し難解で、世間一般的な母と娘の定義を覆されます。
母性は曖昧な概念でありながらも、日常的に使われている言葉です。当たり前に、どこにでも存在しているものだと思っていました。
この作品はそんな認識を大きく歪まされます。本当に問題作です、良い意味で。

『母と娘の真実』について、これ以上の詳細は伏せます。是非ご自身で観測してくださいませ。



おわりに


この作品における着地点は『母性』の有無だけなのか…?と未だに考えてしまいます。
母と娘の繋がりは切っても切れないものです。聖母が亡くなってもなお、その存在に縛られ続けたルミ子のように。

『母性』の有無にかかわらず、人は誰でも母になることができます。
そして母がいれば娘がいる。この依存関係が、実はある種の呪いのような…避けて通れない問題であると、強く認識させられました。

『母性』が無い母のもとで育つと、一体どんな大人になるのか…
その一部始終をこの作品で理解らせられました(笑)真正面からバーンと喰らいました、キツい。

最後に、私自身は母と娘のどちらなのかと考えてみました。
妥協案で娘かな…なんとなくだけど。

イマイチ締まりが悪いですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,494件