見出し画像

才能の多くは○○が土台

どの世界も、突き詰めれば必ず「才能」というものの壁にぶち当たる。


「才能」「才能」「才能」…と私たちはいうが、そもそも「才能」というものの正体について考えたことのある人はどのくらいいるだろうか・・・


先日、次の一万円札の顔となる渋沢栄一の代表作『論語とそろばん』をあらすじ風に読みやすくまとめた本、『あらすじ論語とそろばん』(著・渋沢健)から「やりたいこと」と「できること」どちらを追求していくべきか、という内容について記事にした。


ありがたいことに、この記事の反響がとてもよかったので、今回も多くのひとが抱えるであろうモヤモヤについて、先人の知恵を拝借し、わたしなりの解釈をしていこうと思う。


「才能」という言葉の裏には、「努力ではどうにもならない天からあたえられたもの」という認識がある。


英語でも才能は「gift」という。贈り物だ。


では論語のなかで孔子は才能についてどのように解釈しているのか?

というと、


「才能の多くは常識が土台」


と語っている。


わたしはこれを読むまで、「社会は常識があるひとの集合体」だとおもっていた。


しかし、どうやら「常識」というものは、それはどお手軽なものではないらしい・・・


「常識」とはなんなのか?


孔子の意見はこうだ。


常識とはすべてが中庸にかない「智」「情」「意」(ち・じょう・い)の3つがバランスよく平等に発達したもの。

※中庸…極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。


「智」「情」「意」とはいったい何だ・・・???


「智」「情」「意」

ざっくり説明すると、ことばのままだがこんな感じだ。


「智」・・・学問・知恵

「情」・・・七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)

「意」・・・意思・主体性


この「智」「情」「意」3つが均等にバランスをもって発達していることが大切だという。


ではこの3つに偏りがあると、どうなってしまうのか・・・??


まず、「智」ばかり発達し、「情」に欠ければ知恵や利益を自分のためだけに使う。


次に「情」ばかり発達し、「意」に欠ければその時々の感情に流されやすくなってしまう。


最後に「意」ばかり発達し、「智」に欠ければただの頑固者になってしまう。


「智」に適度な「情」がミックスされることで何事も円滑に導いてくれるし、「情」に「意」が加わることで感情に流されない。「意」に「智」を混ぜれば調和することができる。


強固な意志に智恵が加わり、情愛があって初めて完全な「常識」となる。


多くの「才能」は、「常識」である「智」「情」「意」を土台としているという。


これはあくまで孔子という人の意見で、とりいれるか取り入れないかは自分で考えることではあるが、わたし個人としてはいちど取り入れてみてよいのではないかと思う。


いくつになってもこの「智」「情」「意」を磨くことで人生はよりイージーモードになっていくのかもしれない。


みっぱ

サポートしていただいたお金で本を買いたいです✽.。(*´ー`*)