「生活とは何ですか?」「わびしさを堪える事です。」 - かすかな声 / 太宰治




当面の目標として「質の高い生活」を掲げた私ではあったが、同時に「生活」ってなんだろう?という素朴な疑問が湧いていた。

掲げた生活の三本柱、質の高い食事・睡眠・運動。栄養あるご飯を食べて、ゆっくり寝て、適度に運動する。さて、生活とは一体なんなのか。まずは、生活とは明日をよりよくするための営みと考えた。今日を上質に過ごすことで、明日に生きる活力がみなぎるからだ。これを繰り返していくと、すると良い生活は将来の健康・安泰に寄与するものとなる。すなわち、生活とは再生産活動ということになり、この点におきまして、投入したコスト以上のものを生み出して富を拡大する再生産活動をよしとする、資本主義思想に染まっているのではないかと思われたところで、あさましく感ぜられ、途端に面白くなく、なんだか嫌になっていた。

そんななか、生活に関するブラボーな見解を発見したので、紹介したい。大好きな太宰治先生様の小説での一節だ。


「生活とは何ですか。」

「わびしさを堪える事です。」


これだけで早速しびれていただけたら幸甚である。これは太宰治の『かすかな声』という、ほんの2ページくらいの超短編の中の一節である。そのほか「だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。」などというパワーワードも散りばめられている。信じることがテーマであると思われ、さて、信じることは素敵で尊い行いだと強く思うのですが、実社会のなかでは馬鹿にされたり、損になったりすることも多い。経験者も多いのではないか。馬鹿正直に信じた友達から裏切られ、学校の先生に売られる。なんか私だけ怒られた。馬鹿だね、損だね、と言われました。田舎から東大を目指したとき、当然のように馬鹿にされました。おっしゃることに納得できなくて、会社の上司に物申す。馬鹿だと言われました。でも、は?だめなのかよ?どっちが馬鹿なんだよ?という反骨精神。これが、かすかな声を読んでいて全体に感じられる雰囲気だ。

その雰囲気のなかで、現れる上記一節。たぶん強く己を信じることができないと、生活のわびしさに堪えられないと思うんですよ、的な文脈で解釈されるようなのだが、生活に著しく関心のあったわたしとしては、それとは別の観点から最も輝く一節として強く心に刻まれた。


毎日YouTube観てるのはなんで? - わびしさを堪えるため

意味もなく飲みに出かけるのはなんで? - わびしさを堪えるため

友達とか彼氏に依存するのはなんで? - わびしさを堪えるため


驚いたことに、生活に関する疑問に、全部これで答えられることに気づいたのだ。

どちらかというと、生活をするのは楽しいからだと思っていた。今ある現状をよりよくするために、楽しくするために、生活に努力してるのだと思っていた。しかし、じつはたぶんそうではなく、生活とは、業としてそこにあるわびしさという負債の回収である、という見解がいまや強力になった。

こう考えると、毎日が、生活が、愛おしい。

わびしさを堪えるための生活を、ここ26年繰り返して、これからもそうなのだろう。安堵する。ここで話は若干変わるが、私は仏教の一切皆苦という考えが好きで根本思想としており、それはもうこの世に生まれたことそのものが苦しみであり、そもそも自分の思い通りに物事が進まないのが人生のデフォルトであるのですよという教えなのだが、上記「生活はわびしさに堪える事です理論」もこれに似ている。物事の初期ハードルは低く考えたほうがいいに決まっている。すると、ちょっとうまくいくだけで嬉しいし、何事も尻上がりと感じられ、毎日をポジティブに生きられるいう逆説がきっと生まれるはずだし、実際そうだ。これぞ、苦しい人生の突破口と言いたい。

変に高い理想をもって生活することは、馬鹿であると思う。

小説をなぜ読むのかというと、こうしたことが起こるからだ。ふとした一語、一文、一節に生きる指針とモチベーションを偶然に得る。必然と思うことさえある。もうほぼ水を得た魚である。ぴちぴちである。読書っていいな、ゆっくりものを考えるっていいな、幸せだな、などということをシーシャ屋でシーシャぽこぽこ吸いながら思索を深めていたあれは、いい休日の一コマだったであるよ。

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シーシャ万歳!

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