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これこそはと信じれるものが

彼は冬が好きで、彼が嬉しそうなところをずっと見ていられるからわたしも冬が好きだ。

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わたしたちは、身体的な距離の取り方が下手になってしまった。あの夜以来、何食わぬ顔をしてこれまでと同じ関係性を装ってはみたけれど、その手のひらがあたたかいことも、お互いの肌がどれほどしっくりと馴染むかもわたしたちは知ってしまっているので、素肌が触れ合っていないほうがもう不自然だと身体の細胞ひとつひとつがざわめくのを、意識的に殺しながら笑っている。お互いわりあい明確にパーソナルスペースを確保するタイプだったはずなのに、彼はふと手を伸ばすときやわたしに何気ない頼みごとをするときに、自分の鎧もわたしの殻もあっけなく踏み越えて「触れていい女」への距離感まで踏み込んできてしまう。わたしは彼の隣のいつもの定位置から撤退しないけれど、触れたがる身体を反対側の壁に押さえつけている。

なにも変わらないと言ったのはわたしだし、彼もなにも変えずに隣にいさせてくれるけれど、お互いにやっぱりどこか「特別」になってしまったなと思う。彼は酷くドライなタイプに見えていたから、なかったことにされる可能性すら想定していたのに、案外に寝た女のことをふと思い出してしまうひとだったのだろうか。メッセージのやりとりに、これまでほとんどしてこなかった他愛ない雑談が増えた。急に寒くなったから外仕事が響くと敬語で吐かれる弱音に、「あたためてあげたい」と返してはいけないことを知っている。でも、弱音のひとつ前の連絡が口実だったのも察している。だからわたしは、できるだけさりげないトーンでその弱音を抱きしめる。人恋しい夜にはわたしがいると、彼にわかっていてほしい。

今年1年呼びつづけたあのひとがわたしとつながりつづける理由は謎だけれど、彼がわたしとつながりつづけたい理由はわりあい想像がつく。手放すのが惜しくなるくらいに、時間を共有して思考回路を混ぜ合わせてきてしまった。わたしの価値観は、彼が問わず語りに開陳しつづけてきてくれた彼の視点に支えられているうちに、もうそれらと分かち難く結びついてしまっていて、彼の思考や美学とひとつも矛盾しない。目の前の物事に対して同じ視点をもち、関係性の在りかたや言葉の遣いかたに対して同じ価値観をもつひとがいてくれるというのは、人生の救いだ。

そういう彼の「特別」でいられるならもうそれだけでいいと思うのだけれど、たまには触れたくなってしまうあたりが知ってしまった者の強欲だ。あのひとのときは、「寝て変わるほどの関係性などなかった」と言いきれたけれど、彼とわたしの間には、寝ることで変質を余儀なくされる程度の関係性が既にあった。その変質にどういう価値を見出すかはわたしたち次第だ。

彼のことが好きだと衒いなく言えるけれど、それは恋愛感情や所有欲とはすこし違っていて、ものごとの考え方や価値観だとか、仕事に対するプロフェッショナリズムだとか、好きなものの愛し方だとか、好悪やこだわりの強さだとか、そういうところに強い共感と尊敬と興味を抱いている、という「好き」で、触れられることをゴールはおろか、マイルストーンにさえ据えたつもりはなかった。ただ、なるべくしてなってしまっただけだ。恋と呼ぶにはあまりにsolidでrigidなものを育んできてしまったから、わたしたちはたぶんお互いに、真実しか交換できない。その場限りの優しい嘘をやりとりできない。ずっと、意味のあるものだけを混ぜ合わせてきた。そのことを誇りにすら思う。

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焦らなくていいと思えるのはこれからも同じものを見て歩いてゆけると確信しているからだけれど、隣にいられる機会はぜんぶつかまえようと虎視眈々としているわたしは、単純接触効果の強さを知っている。ちょうど共通の友人と予定が合ったので、3人でゆるい山歩きに出かけた。わたしは相変わらず、泥濘んだ道で差し出された手を取ることができないタイプの女で、でも、叶うならそこを可愛いと思ってほしいし、彼はたぶん、そんなわたしがベッドの上では必死な顔で手を伸ばしてくるところまで込みで、可愛いと思ってくれている。わたしを見る彼の目がたまにとても甘いのがうれしいのだけれど、正視してしまったら戻れなくなりそうで、わたしは目を逸らす。

わたしはたぶん、あのひとの手なら取れるのだろう。あのひとがほんとうにどこまでも、世話を焼くことに喜びを見出すタイプなことを知ってしまったから。けれど彼も、あまりひとに気づかせないだけで、実は途轍もなくgiverだと思う。彼はここ数年で明確に人の心を失くしたと口さがない誰かが噂していたけれど、彼はここ数年で明確にわたしに優しくなっている。ドライで割り切りの強い生きかたをしているくせに、ときどきとてもやさしいひとだとずっと思っていた。ちいさな頼みごとを二つ返事で引き受けてくれるところも、願ったことを200%以上のクオリティで提供してくれるところも。

甘える前に、「このひとはわたしの甘えを許容してくれる」ということを確認したがるわたしは臆病だと思う。「このひとの厚意には甘えてもいい」と思える相手はありがたい。苦のないことを苦のない範囲で提供してくれていることを信じられないと、わたしはうまく甘えられない。


緑の中で彼を見るのが新鮮で、「カメラの練習」を言い訳にこっそりたくさん盗撮してしまった。なにか考え込んでいるときの彼の口元に、きゅっと力が入っているところが好きだ。彼の表情や仕草を、ときどきとても可愛いと思う。わたしは寝た相手のことが可愛くなってしまうタイプなのだろうかと自問したけれど、よく考えたら寝る前から可愛いと思っていたのだった。彼が無邪気な悪戯っ子に見えることはこれまでも何度かあったけれど、ここ数日時折、その横顔が酷く無防備で傷つきやすい幼い少年に見える瞬間があるのは、わたしの目が曇っているのか、それとも彼の中にちゃんとその少年がいることに気づいてしまったのかまだ分からない。随分酔った夜に彼に伝えてしまった、「あなたに傷ついてほしくないし、必要以上に敵を作ってほしくもない」は、わりとどうしようもなく本音だったなと思った。

同じメンバーで町中で飲む予定もあったから、会える機会を随分短期間に詰め込んでしまったなと思っていたところへ、彼のほうから「もう1人誘って、次回はうちで鍋でもしよう」と追撃が来たのには驚いてしまった。一緒に過ごしたいと思っているのは、わたしだけではないのかもしれない。日程調整をしたら「その日は1日空いてるから朝から吞めるなあ」などと彼が見え透いた釣り針を垂らしてくるので、容易いわたしは迷わず「じゃあわたしと昼から飲みはじめましょう」と食いついて、たぶんここからが明確に前戯だった。


楽しみだなあと思いながら、茄子に隠し包丁を入れる。彼が好きだけれども普段は口にできないという食材ばかりを選んでおつまみのメニューを構成してしまった。食べてくれるひとのことを思いながら食事を作るのが好きだ。以前の飲み会のときに居酒屋の品書きのどれに目が躍っていたかも、並んだお皿のどれに最初に手を伸ばしたかも、どれを食べて「お、これ美味いな」と新鮮な顔をしていたかも、ちゃんと覚えているから期待していてほしい。こういうときのわたしは、めちゃくちゃに戦略的だ。どうすれば喜んでくれるだろうかとあれこれ考えてしまうのは、彼と同じくわたしも、一度本気で「好き」枠に入れた相手のことをやっぱりどこまでも好きでいてしまうからなのだろう。

出会って5年ほど経つ中で、何度かわたしからじゃれつくようにちょっかいをかけてはきたけれど、わたしたちがふたりきりになるタイミングができるようになったのはここ最近のことだった。ここ半年ほどの彼はどうもわたしに甘くて、今ストレートを投げたらストレートが返ってきてしまうのではないかという色めいた予感と、そうは言っても結局彼はわたしに「男」の顔をしないだろうという先回りした諦念の狭間で揺れ動く自分を、わたしは結構楽しんでしまっていたらしい。秋口に酔いに任せて投げた「今度ふたりで飲みましょう」が流されずに、「今年中には」と返されたあたりから、綱渡りの快感は始まっていた。

結局彼のほうにのっぴきならない用事ができてしまって、夕方みんな揃って飲みはじめることになったのを、残念だなとは思ったけれどべつにそのこと自体がそう酷く悲しいわけではなかった。なのにこういうとき、かつて誰かに蔑ろにされた気がした記憶たちが津波のようにうねりながら身体の奥のほうから込み上げてきて、わたしを水浸しにしようとする。結局ひとりではどうしようもなくなってやさしいあのひとの名前を呼んでしまうわたしは絶望的に狡いけれど、飲みはじめてから用事の内情を丁寧に開示してくれる彼もそれなりに狡い。そうされてしまえばわたしが大人のふりをして物分かりのいい対応をすることしか選べないのを、たぶん彼は分かっている。


「お通し」と出された彼の料理を一口食べた瞬間、「ああ、正解だったな」と思った。お酒を好む人特有の酸の効きかたはわたしにも好ましくて、このバランスで味の調整をするひとなら、わたしの料理もきちんとフィットするだろう。おつまみを並べたら案の定、美味いよと彼は嬉しそうで、よかったな、と思った。こういうときに嘘が吐けないひとなのを、わたしは知っている。

ほどほどに酔いが回ったころ、鍋の具材を足そうとリビングからキッチンへ立った彼をなんとなく追いかけて横で手伝っていたら、「最近誰かのせいで落ち着かないんだよ」と彼にさらりと腰を撫でられた。「今日はふたりで飲めなくて残念だったな」と彼が笑うので、彼とのコミュニケーションのテンポ感にすっかり慣れてしまっているわたしは、もう一縷の躊躇いもなく「期待してたのに」を上目遣いで零して、「はは、期待してたか」と口角を上げた彼はすこしだけ低い声で、「このあと残っていけよ」を落とす。そのあとの「いいの?」「いいよ」はもう様式美の範疇だなと思った。彼の、ほしい、がちゃんと示されていて、わたしは安心する。


一人帰ったあとに残った友人は、元々精神的な脆さを時折曝け出してくる人で、わたしがまだリビングにいるのを知ってか知らずか、キッチンで彼に人生相談を始めた。そうか、これだけ弱ければ、彼にここまでケアをしてもらえるのか、と他人事を他人事として聞けているうちはよかったけれど、優しい嘘の吐けない彼がただどこまでも言える限りの言葉を尽くしているのを聞いているうちに、だんだん喉の奥の塊が熱くなってきてしまって、このシチュエーションにおいては大人のふりをした物分かりのいい対応はしたくないしできないと思った。永遠に一番にはなれないことくらい分かっていても、平等にやさしいひとの特定複数にはなりたくなかった。彼の、「友達がいない」と嘯くところが好きだった。

ときどきキッチンから視線が合う彼に、「帰りたい」と目で訴えてみたけれどひとつも聞き届けてはもらえず、漸く友人が帰ったころには、もう完全に涙腺が決壊していた。「なんで澪が泣くんだよ」と驚いたような顔をしている彼は、やっぱり人の心がないのかもしれない。それなのに、「おいで」と膝に乗せられて、「どうしたんだよ」と聞きつづけてくれる彼に、わたしはもう馬鹿みたいに素直な本音を話してしまうことしかできない。これはただの駄々で、そんな資格も権利もないのは分かっている。けれど、普段のわたしは大人のふりをしているだけだから、こんなときにまで大人のふりをさせないでほしい。

宥めるように紡がれる彼の言葉が安易な誤魔化しではなくて、白黒つけられないものがあることを理解したうえで、解消できる問題があるならば真正面から解消しようとしてくれている真摯さなのを知っている。彼は、視野が広くて、とても想像力のあるひとだと思う。わたしが口にさえしないちいさな願いを過たずに拾いつづけてくれているのは、そういうところだ。ほんとうは、酷く優しいひとだと知っている。本人がそう見せたがらないから言わないけれど。

聞き届けてくれることが分かっているひとが相手だとはいえ、こういうときになにが嫌だったかをきちんと伝えられるようになったのは成長だと思う。「わたし、めんどくさいでしょう」を「おう、面倒くさいよ」と撫でられるのは、既視感があってよかった。「上から可愛がられたい」は変えがたいわたしの性的嗜好で、好きな相手に対して殊更に負けたがる癖がついたような気がする。そのまま散々触れられて、「もう泣かないか?」と問われても、元気よく首を横に振ってしまう。

***

今年1年、複数のひとに支えられてさまざまなものごとが良い方向に変化した、いい年だったなと思う。ここ数年は、そういう関係性を築きつつ、そういう相手からのフィードバックを受け止める度量を育てる期間だったような気がする。輪郭の酷く柔らかいひとと、輪郭が強固に築かれたひと、双方に今年触れられたのもよかったのだろう。いずれもわたしにとっては魅力的で、自分自身がどうありたいかはまだ分からない。これまでだったら迷わず後者と答えていた気がする。わたしがどう生きてきたかも、なにを大切にしているかも、今なにが楽しいかも、ふたりになら話せるしふたりには知っていてほしい。

わたしを腑分けしたうえでべたべたに甘やかしてくれたのがあのひとで、わたしを見抜いて一見ドライなようで分かりにくい優しさをくれるのが彼だった。ほしいと言えば与えてくれるのがあのひとで、わたしの知らない、けれどわたしの心にフィットするものをそっと置いていってくれるのが彼だった。どちらもわたしが選んで手にしたから、素直になってよかった、と思う。駆け引きはもうやめてしまった。わたしはわたしの気持ちを伝えてゆくだけで、そういうやりかたは、あのひとが教えてくれたことだ。わたしの感情は重いので、その重みをぶつけてもいいぶつけたいと思える相手以外には、できるだけ感情をもたないようにしてきただけなのだろうなと最近思っている。ずっとそこにいてくれる相手のことしか信用できない。

あのひとへの感情も、彼への感情も、恋だとは思わない。「この世界を、それでも生きていかねばならないのなら、わたしにはあなたが必要」というただそれだけだ。ただそれだけの、けれど、ある種酷く切実な。

どちらも「変わらない」ものとして、細く長く続けてゆける。それは不変のものというよりは、折々の環境に応じて柔軟に調整されながら、それでも続けてゆきたいという意思を双方が持ち合わせることによって織り上げられてゆくものだ。恋はわたしには向いていないので、たぶんもうしないだろうと思う。したことがあるのかと問われると微妙なところだけれど。

故愛犬の命日に、彼に「もう8年、あの子のいない世界を生きてきてしまったの」とふと零したら、「たった8年だよ」と返されたのは、「生きていてほしい」だったな、とふと顧みて思う。わたしが受け取れる温度でしか発話しない彼のそういうやさしさに、気づける目をもっていてよかった。故愛犬の寄せてくれた感情に縋って生きてきたような気がするけれど、こうして彼と過ごす時間の記憶も、この先わたしを長く生かすだろうと思った。

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