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週休二日じゃ足りません

2024年7月19日(金)会社が居心地悪くて息苦しい

日に日に無理みが増している。いいところは、前職までの在宅ワークとちがって永遠に仕事し続けちゃうとか、誰もWorkloadを管理してなくてがんがんタスクを積み上げられてしまうような環境ではないこと。長くいる人も定時にはサクッと帰っている。

悪いところは私自身の「異質な場所」アラートが鳴りやまないこと。文化が違いすぎてカルチャーショックと、このカルチャーに馴染むの嫌。。という感情がアレルギー反応を起こしてしまっている。

職場に同じくカルチャーショックが3ヶ月続いている新人がいて、その人と今後のキャリアパスの話などを職場の休憩室でコソコソとした。彼は私より10以上若いので「逃げるなら早いほうがいいかもよ」と年増の弱々しいアドバイスを伝えておいた。

2024年7月20日(土)心の傷について

前回の記事で、次に読みたい本のリストを並べてみたらトラウマ関係の書籍の多さに自分でも改めて驚いた。アマゾンのカート「あとで買う」にも何冊かトラウマ関係の本が入っていた。

20代、30代はずっと自分のこころの傷をどうしたもんかと思っていた。今ほどSNSが主流じゃなくて、私はネット検索で「心 傷」「心のトラウマ」「心が痛い」「心 傷 可視化」など、とにかく自分の心情をそのまま検索バーに打ちこんで、答えを探していた。まあ一言でメンヘラと言われてしまうような人だ。なお私は、メンヘラとか、障害者の方を蔑むワードとか、様々な立場の人を簡単に蔑むような言葉、次から次へと生まれては定着してしまう暴力的なネットスラングを、心から軽蔑している。

検索結果で出てくるのは、初回6万円とかのホメオパシーとか退行セラピーとか霊視とか、数珠とか塩とか売ってる感じの怪しい、胡散臭いポジティブさが画面から滲み出ている商売のサイトばかりだった。心は目に見えないから、目に見えない傷を解決しようとする商売ってこういった怪しいものになりやすいのだ。

ところがTwitterが主流になってきて、私と同じような心の問題を抱えた人がたくさんいたことがわかって、彼らの境遇に共感したりとか、心の問題を扱った書籍もSNSからたくさん拾えるようになった。おそらく我が家は、毒親、機能不全家庭のグレーゾーンだった。「まとも」ラインぎりぎりの、境界線。「まとも」とか「普通」とかって、基準などなくて、個人の価値観や捉え方によって違うから、とても曖昧なものだとは思うけれど。

今思うと、20代、30代の頃、仕事から帰って家に着くと私はよく泣いていた。

もともと私の心には傷があって、それを応急処置で接着剤でくっつけて人間生活を送っているけれど、一日が終わって疲れとともに心の傷がほつれてきてしまって、そこから血液がとめどなく溢れて止められないような感じだった。痛くて痛くて(そんなときは物理的に胸が痛かった)、夕飯を食べながら涙がぽたぽた止まらなかったことも一度や二度ではない。なんか、無理してたんだろな。その無理が、夜には限界を迎えて、仮縫いしてた心の糸がほつれて開いてしまう、そんな感じだった。とるにたらないささいなことで傷つくとは違う、もともとある傷を取り繕っていた糸だかボンドだかがほつれて、傷が開いてしまうというような感じだ。「もともと傷がある」というところが大きなポイントだ。もともと身体が不自由な人、といったのと同じ感じで私は、もともと心に問題を抱えている。

そのもともとある傷が、どこでできたのか。さきほど書いた毒親とか機能不全家庭が原因なのかどうかはわからない。というか、原因がわからないからそれをずっと探っていた。

はっきりした理由がわからないまま傷ついた仮縫いの心を胸に抱え、電車に乗って会社に行って帰って来て、という社会生活を送ることはしんどいことだったのだ。せめて自分の心、目に見えない「心」というものの状態がどんな感じになっているからこんなに、泣くほどに胸が痛くなるのか、可視化してみたい衝動にかられ続けてきた。それを求めるのは本能のようなもので、たとえばびりびりに破れたハートとか、ずたずたに引き裂かれて血まみれになったハートなど、それをできるだけ鮮明に、デフォルメしていない状態で目で見てみたい(比喩ではなく物理的に)という不思議な思いがあった。

リストカットをして自分の傷を眺めて癒されるという人がいるけれど、もしかしたらそういうことかもしれないと思う。心の痛みを可視化してホッとしているのかもしれないし、心の痛みを肉体の痛みに分散しているのかもしれないし、心の痛みを腕とかを切ることで具現化しているのかもしれない。

そういう、傷を縫ってなんとか社会人をやれていたが疲れなどとともに破れてしまって痛くて泣く、みたいなことは、ダニーロと一緒に暮らし始めてからはなくなった。これは直接的にダニーロが救ってくれたということではなく、家に帰ればダニーロとのコミュニケーションが発生し、それが心の傷を忘れさせてくれていたように思う。目を逸らさせてくれていたというか。

その当時していた、レストランの仕事のときもなかった。人とのコミュニケーションが活発な場所では、心が化膿して痛くてうずくまるみたいなことは起きなかった。

そのあとは在宅ワークに切り替わった。何度も書いているが在宅ワークが自分のスタイルにとても合っていたし、それに心が痛くて泣くということはパタッとなくなった。

私は年齢とともに心の傷を克服、もしくは寛解したのだと思っていた。ところが新しい会社に出社しはじめて、またあの懐かしい苦しさが蘇ってきて少し焦っているところだ。自分にとっては在宅の仕事、もしくは例えばフリーランスのような、自由度の高い働き方が本当にいいのではと、今改めて思い直している。働き方と、この「心の傷の蘇り」は関連しているように思える。

この「もともと傷ついた心」の原因が生い立ちのせいなのか、生まれ持った性質なのか、症状が寛解した理由が労働環境、生活環境に依るのかもしくは年齢を重ねて図太くなって自然に気にならなくなったのか、その全てか。すべてが謎なので、この心の問題については雲をつかむようでまとまらない。そもそも目に見えないし。

この心の傷と、キャリアと恋愛に及ぼしたと思われる影響についてまた書いてみたいと思う。

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