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青い春

第二次性徴期を待ちわびている中学生だった。まわりがだんだん「生理がきた」「私もきた」「生理きたら報告しあおうね」と言い合って次々に初潮を迎える中、いつまでもぺったんこな皮膚の中に梅干しの種が埋まっているだけの胸とガリガリの棒のような身体の私には何の予兆もなく、私は本当は女でも男でもない中性的な人間なのではと、半分本気で自分のセクシャリティについて悩んでいた(ちびまる子ちゃんのコミックにそんなエピソードあったなぁ)。

はじめて生理がきたのは中1の終わり、13歳の3月だった。憧れていた先輩が卒業してしまってがらんとした校庭に霧雨が音もなく降っていて、校庭の柳がこれも音もなく揺れていた。教室の窓から見ていた景色だから音がなかったのだが。

机の引き出しに大量にわら半紙を入れていて、そこにイラストや詩や散文を書きためていた。13歳。

はなしに聞いていたようにちゃんとお腹が痛くなるのが嬉しかったし、自分が大人になったような気がして嬉しかった。これは生理なんか邪魔でしかないと思う大多数の女性と意見を異にするかもしれないが、大人になっても毎月「こんにちは」って感じで生理がくると、生きてる感じがするというか、自分が愛おしくなる。普段目に見えない自分の身体の中の活動がわかるのが嬉しい。生理の前日や初日は頭の血が全部下半身にいってしまって、思考回路が機能せず、仕事でのミスが如実に増える。しかも凡ミスレベルではなく大き目のミスをしてしまいがちなことがわかっているので、生理中でうまく動かない頭で相当神経を張らなければならない。これは本当に困ったことなのだが。

ところで、男性にしても女性にしても私が強烈に憧れを抱く対象って男性性と女性性の両方を持ちあわせている中性的な人がとても多くて、それは自分に近い人に惹かれるからなのかもしれない。ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチに夢中になったし、マコーレーカルキンの復帰作パーティモンスターをきっかけにドラァグクイーンに熱狂した。性別を超越したような存在に強く惹かれる。

自分自身も中性的な人間だと思うし、私は異性愛者だけれども、前世というものがもしあるのならばそのどこかで同性愛を経験しているのではと感じるくらい、同性愛に強烈なシンパシーを感じるし、言うまでもないことだけれど、愛は愛として同性愛も異性愛も等しく美しく時に醜くそして尊くかけがえがないと思う。当事者ではないけれど世の中が少しずつLGBTQに関心が高くなって自由への解放の道ができてきているのは嬉しい。昔書いたアメブロ記事を思い出した。どういう風に生きろなんて何人たりとも他人に指図などできないのだよ。


…って、なんの話だっけ。

このnoteを始めて、最初は己の膿を出すかのようにどんどん書けていたのに、最近筆が止まってしまう理由のひとつとして、あまりに自分が「永遠の思春期」で、でも年齢公開しちゃってるし…という自意識過剰を発動させているから、ということは気づいていたんだけど「あ、これ誰かのために書いてるんじゃなかったわ」と今思い直した。

もう書いてて自分でも呆れるぐらいに「41歳の自分探し」状態だし、厨二病とかメンヘラとかそういう言葉を私は心の底から嫌ってるんだけど、私自身がそれだよなーって書けば書くほど「いい歳して…」って恥ずかしくなってしまって、最近忙しいのもあるけど、それより何より恥ずかしくて書けてなかった!!!

…けど、人のために書いてるんじゃなかったわ。かといって何のために書いてるとかは別になくて、強いて言うなら気持ちの整理とか、過去の成仏のためとか、ただ書きたいから書くとか、その程度のもんだったことを思い出した。

私は「年相応」という価値観が薄く、誰と比べてもうっすら変わってることは自分でも気づいていて、そんな自分が好きでもあるし生きにくくもあるんだけど、そもそも誰とも比べなくていいんだよな。並列を気にして横目でチラチラ様子うかがいながら生きなくていいんだってば。どうしたってみんな一人一人変わってるんだからさ。

…って何が書きたかったんだっけ。

今、41歳にしてすごく、柔らかい新緑が芽吹き出すような感覚を覚えている。人生で四回目ぐらいの成長期かもしれない(第二回目はまぎれもなく13歳だった。第三回目はいつだっけ?おおざっぱな性格は変わらないので許して欲しい)

冷え切った灰っころみたいだった自分が、その灰の割れ目からほのかに赤い火が見えはじめた。息を吹き返したみたいな感じ。仕事を始めたことで鬱抜けできたこと、そして「自分を否定しない」「自己認識の否定をしない」の意識のもとに(※)バリバリと働いているうちにまた自分という人間を生きることが楽しくなってきたのだ。自分の可能性に賭けてみたいような、10代みたいな懐かしい感情を思い出している。そうだ、そんな風な10代だった。そしていつしか諦めてしまって、諦めるしかないのだ、大人になれと自分で自分に言い聞かせて、お金を稼ぐためだけに満員電車に揺られたり、不毛な恋愛にのめりこんだりしただけの20年間だった。

(※)「自分を否定しない」「自己認識の否定をしない」については別記事でまた書きます!

幸せのなりかたがわからなかった。幸せになっていく人をたくさん横目で見送って来た。自分が欲しかった幸せって、結婚でもない、子供を持つこともちがう、でもかといって自分の幸せがどこにあるのかずっとわからなかった。というか、わかっていたのにそれに向かう一途さを失ってしまった感じだ。

夢中になれたものに没頭して、それを続けていればその過程でそれなりのものが手に入ったのだと思う。探している、探し続けているというのは手に入らない状態を続けてしまうということなので、ずっと「ない」状態なのだ。でも私は探していたのではなかったことに最近気づいた。自分が何が欲しいのか、わかっていたのにお利口に生きるほうを選んで、でもそれすらもうまくできなかったのだ。

若いうちに夢中になれたものを続けていればそこから派生して、行動していくうちにどんどん手に入れたい目標は変わっていって、それを手に入れる過程でいろんなものが手に入っただろうに、何もしないまま「何を目標に行動すればいいんだろう」って悩み続けた20年だった。

20年くらい時間を無駄にしてしまった事実と、時間は巻き戻せない事実にただ唖然としているけれど、それでも自分に少しずつ火がついてきたので、動き出せそうに思っている。

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