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ふりかえらなければなかったことになる

揺れる思い

若かった学生の頃、ああ今のこのいいバイブスを録音しておきたい、とか思ってた記憶がある。若い頃から私は気分が上下しやすかった。外的刺激にもろに反応してしまうタチだった。

「気持ちが揺らぎやすい」という表現があるが、厳密に言うと常に揺らいでいるのはこの世の現象のほうだ。この世の事象(自分をとりまく他人の感情、日常で起きる出来事の大小などなど)は常に揺れており、私の感受性はその揺れに敏感に反応する。事象に合わせて心のろうそくの灯は大きくなったり小さくなったり消えそうになったり、消えたりする。

または、外的変化を映し出すミラーを心に持っていて、私のへそまがりで歪んだミラーは時に現実を実際よりもネガティブに映し出し、他人の少しの一言を私への強い攻撃に感じたり、ものごとを悪く受け取りすぎたり、少しの出来事を挫折と感じて自信が粉々に打ち砕かれたり。時には実際よりもプラスに受けとって、お世辞で少しおだてられただけで舞い上がって、自分が無敵に映ることも。大変である。

若い頃は感性が今よりもっともっと鋭かったので、心のミラーには実際よりも何倍にも大きく映って気持ちが高く上昇したり、逆もしかりで気持ちが地の果てまで下降してしばらく寝込んでしまったりした。傷ついた獣がこんこんと眠ることで傷を癒すように、じっと布団にもぐって眠り続けることが多かった。

社会人になって久しい。組織の中で働くのにいちいち心の鏡にすべてを映し出して一喜一憂していては生きていけないので、心を無にすることも覚えた。

そうするうちに、みずみずしい自分の感性も死んでいく。心を無にする時間のほうが長すぎて、自分の感性の方をあらわすやり方を忘れ去って、腐ってきた。

みずみずしい自分の感性というものを活かした生き方をしたいと思っていた若い頃の自分はとてもがっかりしている。生きてお金をもらって家賃を払うということは本当に私にとっては難しいことだ。

つれづれにつぶやくならTwitterでやればいいわけで、なにか有益な情報を書くならばよいものを、つれづれなつぶやきをnoteで書き連ねて何の意味があるのだろうと思うけれど、すべてに意味を求めても息苦しい。もっと適当に生きるようにしないと、結局のところ意味ばかり求めようとしているから自由に生きられないのでは?自分を解放したい。忘れつちまった自分を取り戻すように、つたない文字を連ねながら、なんとか自分の感性というものに水をやっている。誰しも自分を忘れたまま生きてなどゆけないのだ。

2024年1月25日(木)

日々いろいろ思うことありて、日記形式で記事を書いていこうと思う。長い文章でまとめられるほどのことはなく、しかし記録には残しておきたいと思う。それでは日記で良いではないかと。タイトルのとおり、ふりかえらなければなかったことになる。日記はあとで読み返すために書くわけではない。これまで書いてきたnote記事も、一度書いて投稿したら最後、読み返すことはめったにない。書いたものは感情の糞のようなものなので、出したものは流して終わりである。

2024年1月26日(金)

1月は厄月だと言ったのは誰だったか、たしか私が昨年酷い鬱状態に陥った9月も厄月だそうだし、私の誕生月の5月も厄月と聞いたことがある。

今月は鬱が酷い。鬱極まれり、という感じだ。仕事も職場環境もやり流せないくらいに嫌いだし、辛くてたまらない。鬱状態の時は辛さをやりすごせなくてすべての負の要素を一気に引き受けてしまう。流すことができなくなっているのが鬱状態だ。楽しい気持ちに一切なれないし、挑戦的にもなれないし、とにかく何もやりたくない。布団で寝込んでいたい。毎日毎日寝る前に「明日休んじゃおうかな」と思う(こんなこと、以前はなかったのだが)。もう早く辞めたいと毎日思うが、実際にはできない閉塞感。辞めて別の道があるわけでもない。別の道が思いつかない。袋小路。詰んだ感。どうしたいという希望もない。アイデアも湧かない。こんな自分じゃだめだと思うのに起き上がれない。焦燥感。一人ぼっち。心の中は土砂降りの大泣きだ。

すべてを諦めることでしか楽になれそうにない。でも諦めることも苦しい。とても往生際が悪い。

今月は街録きっかけで田代まさしにハマって、RATS & STAR時代の映像とか最近マーシーが始めたYouTubeチャンネル、YouTubeに違法に転がっているだいじょうぶだあに貼りついて目が離せない。中毒状態でマーシーに依存している。ダンスも歌もうまくて色気もあって、頭の回転が早くてセンスも良くて、この人はエンターテナーとしてテレビに出るべくして出てきた人だと。

今の私みたいに地の底の地獄にいるときに覚せい剤と出会ってしまったら。現実が辛すぎて、一瞬の快楽が欲しくて薬に手を染めてしまったら。才能の塊のような人が長く依存症という病気に苦しんでいる様子をマーシーを通して見ていると、その恐ろしさを感じざるを得ない。クスリに手を出してしまった最初のところ、最初のその一歩は本人の意思の弱さだと思う。でも依存症となってしまってからは、本人の反省とか意思の弱さとかは関係なく、身体がいうことをきかなくなってしまうのだと。彼には頑張りすぎずに、毎日を一歩一歩、無理せずクリアしていってほしい。これって自分へのメッセージでもあるな。今日をなんとか乗り越えた。それだけで合格じゃないか。

なんの話だっけ。

今日風呂を洗っていて、ないものを数えるんじゃなくてあるものを数えようと。住む家があって、毎月少ないけれどお給料はもらえて、飯もなんとか食えている。手垢のついた教訓は嫌いなんだけど、そう思わないとやってられないくらいにメンタルが酷いのだ。だからおのずとそう思わざるを得なかっただけだ。

友達に「君は鬱のケあるけど同時に自己肯定感も高めだからまた這い上がってくると思うから心配はしていない」というようなことを言われたことがあって、それがなんとなく心の支えになっている。

2024年1月27日(土)

これからも下品で低俗な日記を垂れ流していこうと思う。

今日土曜日は、平日のたっての夢だった「寝たいだけ寝る」をやると決めていた。目覚ましはかけずに欲望のままに眠るのだ。ところが心配性の母親がさすがに正午をすぎると心配になるのか部屋をのぞきにくる。鬱の時は放っておいてほしいのだが。鬱病患者と、他人との境界線がみえない過干渉の人とは相性がとても悪い。

排卵していた。メンタルの辛さは排卵のせいもあったのかな。わからない。まだ子供産める可能性ありますよ、私。生理がきたり、排卵をしたりすると、生きてるって感じがとてもする。子供は自分の意思では持つことは9割方ないだろうと思っている。子供を持つということに興味が一切ない。これは一貫して変わらないな。自然に子供を産みやすい年齢もとうに過ぎた。

話はころっと変わるが、また下町に住もうかな。自分好みの家を借りて、マグカップを集める趣味をやりたい。あ、マグカップっていうとチゲ鍋と同じで意味が重複しちゃうんだった。

たまに人を呼んで一緒にケーキを食べよう。誰か来てくれるかな。週末はのんびり寝て、近所の美味しいピザ屋に昼飯を食べに行こう。お金は大丈夫かな。

一人で生きるのにこころもとなすぎるので、良き理解者が現れないかな。現れないよな。口をあけて待っていても何も起こらない。自分から探しにいかないと、出会いはない。こんなにすてきで面倒な私がここにいるのに、もったいない。ダニーロと出会った時のように、奇跡のケミストリーが起これば、とても楽しいことになりそうな気がしている。私はおもしろい女だし、私もおもしろい男に出会いたいと思っている。一緒に人生を楽しく渡っていけそうな。書を捨てよ街へ出よう。鬱がちょっとよくなったらね。

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