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70代の両親と暮らす_2


エンディングノートを渡した話

両親と暮らすようになって3年が経つ。2020年5月まで住んでいた東京下町のボロアパートをコロナを理由に引き払って、実家に戻って来た。あれから3年。

両親にエンディングノートを渡した。かねてよりきょうだいで話し合って、両親の頭がまだしっかりしているうちに、銀行口座や保険のこと、大事なものの保管場所、介護はどうされたいかなどの希望などを書き残してもらうことに決めた。エンディングノートといっても我々が受け継ぐ資産はないので、彼らの日常の営みを引き継ぐ形になるだけだ。

母方の祖母がボケ始めてから金銭問題があることが発覚して、それにまつわるいざこざがあり、親戚関係にもヒビが入った。

祖母に関わる金銭トラブルがあってから(祖母の名誉のために言っておくと祖母に借金があったとかの類ではない。祖母は潔癖で生真面目な人で個人主義で、だからこそ周囲が気づけなかったトラブルだった。詳細は割愛する)、我々きょうだいは、両親の頭がはっきりしているうちに色々クリアにしておこうと話し合った。両親におそろいのエンディングノートを同時に渡して各々書いてもらい、書き終えるぐらいのタイミングで家族会議を開いて確認し合おうと決めた。

それを両親に事前に伝えておかなかったのは、暴力的だったかもしれない。突然「はい、エンディングノートどうぞ。書いてね、よろしく!」は、死を想起させるものだけに、あまりに軽率だったかもしれない。

しかし、我々の両親はいちいちめんどくさいので、前もって伝えておいたら絶対になんだかんだ反対されて実行が長引くに決まっていた。まず否定から入る人たちなので、情に訴えかけるなどして説得し、納得してもらうだけの労力も時間もなかった。それは、きょうだいの暗黙の了解で、事前に両親には告げずに強行突破するしかなかった。

軽率、と書いたが、エンディングノートを両親に渡す役割の私は人知れず緊張していた。両親はどんな反応を示すだろうか。やっぱり死を感じさせてしまうものだから、いい気はしないはずだ。両親と同居している私はどうしても、こういう気まずい役割がまわってくる運命なのだ。

今日、仕事を早く終えられたので両親と一緒に食卓を囲んで片づけて、両親がテレビの前に揃って座ったところをみはからい、重い雰囲気にならないように気を付けながら「これ、大げさなことじゃないんだけどさ、気が付いた時にでも書いておいて」とまずは父に渡した。

頑固で気難しい父は絶対に拒絶するだろうな、との我々きょうだいの予想を裏切って、すんなりと受け取り「わかった、書いておく」と言ってくれた。「10年ぐらいかかるかもしれないけど」というのは明らかにただの冗談だ。

一方、母はLINEで報告した時点ですでにごねていた。弟が、1歳になる自分の娘が初めて立った動画を家族のグループLINEに送っていて(父はグループに入っていない。父は一匹オオカミ男なのだ)、その後に私がエンディングノートを買ったことを報告したものだから「可愛い孫が初めて立った記念の日だ。そんな日に長女からはエンディングノートを買ったとの報告…皮肉なもんだ」みたいなことを(笑)マークを付けながら母はコメントしていた。本心は全然笑ってないな。何が皮肉なのかいまいちよくわからないが、おもしろくないんだな、ということは伝わった。

母はエンディングノートを私から受け取ると「ママ自分で用意してたのがあるのよ!見せてあげる」といって、いつから用意していたのか、雑誌の付録なのか、私が買ったものとよく似た(といってもエンディングノートは色々見たがどれも似たり寄ったりだったが)ものを持ってきた。少し記入もしてあった。

「これわかりやすくていいのよ」と言いながら私が買ったエンディングノートを開いて「職歴?なんでこんなの書かなきゃいけないの」「親族一覧?これいる?やだこんなの書きたくない」などと、私が買った方に一通り文句を付けた。

「あぁ、学歴とか職歴とか書かなくていいよ。書きたくないところは飛ばしちゃって、わかるところから書いてくれればいいから」と言った。両親に同じものを渡したのはその方が照合が楽だと思ってのことだった。母が気に入って書き始めたものがあるのなら、そっちで進めてくれていいよとも伝えたが、結局は私が買ったもので書いてくれるらしい。

父は人に何かをやらされたり、押し付けられるのが大嫌いな人だから、ふわっとした何気ない感じで渡せて成功したと安心していたのに、母が説教っぽく「これね!書いてよ?頼みますよ!!?」と父に強い口調で念押ししていて、嫌な気分になった。義務になると誰もが、特に父はあまのじゃくなので、やりたくなくなるものなのに、余計なことをしないで欲しかった。母はいちいち一言余計なのだ。

親の目の黒いうちに色々はっきりさせておくこと。痴呆になって何も確認できなくなってからでは遅い。母は頭ではわかっていても、いざエンディングノートを買ったと告げられると、他人から死を自覚させられるようで、気分を害したのだと思う。その気持ちはわからなくもない。

エンディングノートを本屋で色々物色していて、学歴と職歴を書かせるものは選ばないようによけたのだが、結局どのエンディングノートにも学歴と職歴のページがあってあきらめた。そこは書かなくていいよ、と今日伝えられてよかった。エンディングノートの何かしらの項目は、彼らの古い傷が疼くかもしれない。書きたくないところは無視してくれてかまわない。

「思い出」とか「残された者たちに伝えたいこと」というページを大きく設けたエンディングノートもあった。父や母がここに何かを書くことを想像しただけで胸にきてしまった。私がうまれたときのアルバムに、几帳面にお祝いのメッセージを書いた若い父と母。私が生まれて嬉しかった父と母。10歳の誕生日に長い手紙をくれた父。その手紙を書いている姿を今でも覚えている。畳に正座をして几帳面な姿で書いていたのを、窓の外の五月の緑と若い父の白いポロシャツと一緒に記憶している。

しかし、なるべくエモーショナルに偏ったエンディングノートは避けて、一番事務的でシンプルなものを買った。けれども、私が買ったエンディングノートにもやはり、最後の方に「残したい言葉」という項目があった。

彼らはそこにどんな言葉を残すだろう。想像がつくようで、つかない。

父と母

世の中のいわゆる「理想的な家族」は幻想だとわかっている。普通などというものは、あるようで存在していない。それでも大きな欠落のある一家だったと思う。人を継続的に愛することを知らない父、家族に関心が薄い父、他者への共感力が極端に低い父。愛情いっぱいに甘やかされて育った世間知らずの母と、野犬のように逆境の中を一人戦いながら生きてきた深い傷を持った父が一緒になった。お互いとまどいの多い結婚生活だっただろうと思う。話し合って歩み寄ることもできなかったので、父の諦めと無関心と、母の戸惑いと深い怒りを見て私たちは育った。父がいないところでは必ず父の悪口になった。と同時に、自分が結婚相手を見誤った後悔を最後に必ず付け足して、長い愚痴は終わりになるのが定番だ。

母にとって父は他人だが、私にとっては血を分けた親で、母にはわからなくても私には理解できることも多々あり、今でこそ母の一方的な愚痴を黙って聞けるが、若い頃は母に逆らって父の気持ちを勝手に代弁したりして、大喧嘩になったものだ。なお、私は家族の誰よりも父に理解を示した人間だと思うが、父から優しくされたことは一度もない。

父も母もめんどくさい人間だ。年寄りになってますますめんどうさが増している。私も神経質で、かなりめんどくさい人間だ。めんどくさい大人が三人で暮らしている。めんどくささはそれぞれ違う。

父にも母にもうまく気を遣いながらうまくやっていければいいのだけれど、私も私で我が出るので、喧嘩ばかりだ。と言っても父とはほとんど話さない。最後にまともな会話をしたのがいつだか思い出せない。挨拶をしても返ってこない。テレビに集中するとまわりが見えない。もともと身内への関心が薄いので、余計に聞こえないのかもしれない。挨拶を無視されるのは今でも慣れない。本人は意図的に無視しているのではなく、眼中にないだけなのだ。

母は胸の奥にマグマのような強い怒りと深い悲しみを抱えたような複雑な性格なので、仲良くしようと思って近づくと喧嘩になるのだから、距離を置いた方がいい。しかし母はとても寂しがり屋なので、つい気になってかまってしまう。それでつまらない口論になる。放っておくことが、私もできない性分なのだ。

長年パートで勤めた仕事を辞めて、そのあとすぐに愛犬を失って、心の居場所を一気に失った母の喪失感は想像に難くないが、性格が難しいので慰めるのも一苦労だ。あまり素直に弱みを見せないので、慰めるためにかけた言葉がトリガーになって傷つけてしまって喧嘩になったりもする。悪気はないのに言葉を間違えて怒られてしまう。私も声のかけ方や慰め方が上手じゃないのだと思う。休日になると母を寿司に誘うぐらいのことしかうまくいかない。

両親はこの結婚を、少なくとも母は、失敗だったと思っていて、それを公然と子供に言うところが母の未熟なところなのだが、それでも「子供に恵まれたから、よしとする」と言っている。

父はそういった陰口を一切しないが、父も父で色々思うところがあるのは当然のことだ。でも父は一切誰にも胸の内をあかさない。父が本当に思っていることを知る機会はめったにない。自分の思いみたいなことをめったに口外しないのは、父が日本の古いタイプの男性の典型だからかもしれない。それに、何か言おうとするといつも母に言葉をさえぎられて、話すチャンスを失いまくっている。母は、父が何か喋るタイミングで何かを喋り出す。可哀そうで、父が言いたかったことを言うチャンスを、私が水を向けて聞き直してあげることもある。母のこの悪い癖は父に対してだけではなく(父に対して一番強く出るが)、口封じというか、会話をしていても母に言葉をさえぎられてしまって、言いたいことが言えないことが多々ある。おそらく母は「寸分の狂いもなく自分の思いを理解してもらわないと気が済まない」病で、それは事の大小にかかわらず、病的にこだわる。ちょっとでもちがった風に解釈されるのが絶対に嫌という感じだ。

どうでもいい日常会話から、父や誰かとの諍いの経緯の説明に至るまで、自分がどういう思いで、どういう理由があってそうした、どういう理由でそう言った、ということを他人に理解してもらうのに、寸分の誤解もあっては許せないという感じだ。

その割に言い回しが回りくどいので、私はよく読解を間違う。それでしょっちゅう喧嘩だ。

父と母のことなら永遠に書ける気がするけれど、ほとんどが愚痴になってしまう。憂鬱にもなるのでそろそろやめる。

ずいぶん昔、ある人に親の愚痴を吐いたら、親に感謝がないと怒られてから、その人に親の悪口はもう二度と言わないと決めた。親に感謝がないわけではない。親のことは見えすぎてしまって、感謝より先に憎しみがきてしまう。

呪いのネックレス

2020年の秋に、私はスイスに渡航した。親族一同、誰もうまくいく確信のないまま、それでも両親は私をスイスに送り出した。もうこの手の失敗を繰り返しすぎていて、これがしばらくのお別れになるとは誰も信じていなかった。渡航前にお別れランチを家族が開いてくれたのだが「また帰ってくるんじゃない?」と笑われた。私もそれに腹を立てず、スイスに行くことを大げさにとらえてくれていないことが有難いと思っていた。彼と手続きの話もちゃんとできていなかったし、パスポートの渡航で結婚手続きがすんなりいくかどうかなんて賭けみたいなものだったからだ。

しかしとにかく、うまくいくかどうかはおいといて、娘が結婚するかもしれないということで、母は重々しい雰囲気を出しながら「これね、高かったの」とリボンのかかった長方形の箱をバッグから取り出して私に渡してきた。駅前のミスタードーナツだった。

箱から出てきたのは、長い間たんすで眠っていた婚約指輪をネックレスに作り替えたもので、プラチナのネックレスもめちゃ高かったし、指輪をネックレスヘッドに作り替えるのもめちゃ高かったらしい。

コロナのせいで、着飾って出かける機会もめっきり減ってしまい、ネックレスはまたもやたんすの肥やしになりかけていたが、この夏、私は高いからとビビらないで日常でどんどん使おうと決めた。この夏はこのめちゃ高いネックレスが大活躍した。母と近所の寿司を食べにいくだけでも、ちょっと買い物に行くだけでも、がんがん身に付けた。

たくさん使うようになってふと気づいたのだが、結婚に失敗した人の婚約指輪をいつも首からぶらさげてるって、深く考えなかったけれど呪いっぽいな。

私は占いとか言い伝えとか縁起が良いとか悪いとかを気にするタチなので、このネックレスを気持ち悪いと思うようになった。43歳シングルだけれど、まだベターハーフを諦めていない。だが考えを改めた。その呪いを自分で打ち破ってやろう。

結婚とかパートナーとかいうものは私にとってはいまだにミステリアスで、うまくいくやり方がわからない。結婚の好例を見ていないし、父親からの愛情を感じずに育ったので、優しさと愛のちがいがわからずたくさん失敗してきた。それでも、傷ついた分学んだこともある。きっと、この人に出会うための道のりだったんだ!と思える出会いがある。そして何よりもいいのは、そんな出会いがなくてもいいと思って生きている。ベターハーフがいて幸せ倍増になるならよりいいけれど、「一人でも幸せ」「自分一人をしっかり食べさせていく」が今の自分の人生テーマだ。

両親の話から決意表明になってしまった。来年は父をヨーロッパに連れて行きたいと思っている。父がボケてしまう前に、父が行ってみたかったヨーロッパを見せてあげる。貯金しなきゃ。母は私と一度行った沖縄が気に入って、また行きたいと言っているのでこれも叶えてあげるつもりだ。お金は出て行っても働けばまた入る。両親のライフタイムは一日一日少なくなってきている。

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