【SS】練り歯磨き粉とコーヒー
「家賃払わないなら出てけよな」
と言ったら、恋人のレオンハルトは本当に出て行ってしまった。
出て行けと言った直後、何か考える素振りをした。出て行くかどうか悩んだというよりは、別のことを考えていたように見えた。
とにかくレオンハルトは、仕事道具の手帳とペンとインクだけを抱えて出て行った。あっさりと。何も言わず。カフェにでも行くかのように、出て行ってしまった。
その日の朝は、普通の朝だった。
俺たちは早起きなんかしない。日が昇ってどちらかが起き出せば、隣で寝ているもう一人も自然と目を覚ます。
今日はレオンハルトが先に起き上がって、俺はそれを追いかけた。
ベッドから降りようとするクルクルの金髪、形のいい頭を捕まえる。
「レニー……」
「やめろエドガー。歯を磨け」
朝の挨拶をしようとして突っぱねられた。
「なんだ、練り歯磨き粉味のキスをご所望か?」
「その通りだ。早くしろ」
ならば従うしかあるまい。こいつの買ってくる歯磨き粉は不味いが、キスのためなら我慢できる。
俺は夕べ沸かして置いておいた水を、コップで汲んで渡してやった。二人並んで壁に向かって歯を磨く。朝の日課だ。
「あ、そういや、今月の家賃まだかよ」
歯ブラシを咥えながら思い出す。なんと今日は二月十八日。月初めに受け取るはずの家賃がまだだった。
レオンハルトは口をもごもごさせながら「ああ」と生返事した。別に金がないわけではないのに、払うのを後回しにする悪癖があるのだ。
「家賃払わないなら出てけよな」
そして恋人は出て行ってしまった。
*
「どうしたらいいかね?」
「ふざけんな」
その日の午後。
訪ねてきた年下の知人に聞いたら、なぜか殴られそうになって慌てて拳を避ける。
「悪いのはレニーだろ。あいつがまた家賃払わねえから」
「じゃあこの眼鏡どうすんだよ!」
年下の知人……アンリが食卓に置いた豪華な化粧箱を指差して怒鳴る。
アンリは眼鏡工房の若主人。二十歳になったばかりだが、こと経営に対しては長老勢顔負けの頑固さだ。
対して俺――エドガール・シャブリエは彼より十七歳も年上なわけだが、金より浪漫を選びがちだと自負している。
稼ぐための算段は嫌いではないが、手に入れた金は浪漫の方、すなわち経済評論とか、政治活動とか、ちょっと過激で真面目な雑誌の出版に回している。雑誌単体で見れば赤字だ。
アンリは俺みたいなことはしない。十数人の工房だが、きっちり利益を出して評判もいい。だからこそ、眼鏡の注文主がいなくなったと聞けば怒るのも最もだ。
「とりあえずシャブリエさんが払ってよ。それでレオンハルトさんに渡しに行けばいい」
「なんで眼鏡まで買ってやらなきゃなんねえ」
レニーことレオンハルト・キージンガーはよく散財する。病的な浪費家というわけではなく、使う時は有金を全部でも。そうでなければ札束を部屋の隅に置きっぱなしにしたりもする。
つまり、気まぐれなのだ。
そんなレオンハルトが今回注文したのはルーペだった。虫眼鏡ほどは拡大されないレンズで、百科事典を読むための専用だという。
「一言くらい慰めてくれたっていいじゃねぇか。急なことで、俺も傷心なんだ」
「もうちょっと扱い方を考えろよ。あんな、見るからにワガママそうなの」
知ったような口を聞く。しかしアンリの言う通りでもあった。
レオンハルトは美形だ。そして中身は風変わり。
金髪、青い目、真っ白な肌。職業は文筆家だが、初対面では役者か、貴族の愛人だと思われる。
彫刻みたいな見てくれで、原稿を書く時以外は意外とぼんやりしている。人の言葉尻は細かく指摘するが、自分の言動の矛盾は放置する。
厄介と言えば間違いなく厄介な性質なのだが、俺はどうにもあいつが気に入っていた。
「……でかい口叩きやがって。ベビちゃんの癖に」
若いのに仕事仕事で浮いた噂がないことへの揶揄だった。しかしアンリは動じない。
「いい年して見苦しいぞ、おっさん。大人気ない」
大人気ない。と、よく言われる。四十も近い男らしくないと。
だがしかし、四十の男で手本になる人物は身近に見当たらない。世間などそんなものだ。四十男のあるべき姿など幻想。実際にはありもしない理想。
「普通さ、出てけって言ったら、本当に出て行くもんか?」
「もしかして家出ってこれが初めて?」
「そんなしょっちゅう家出されてたまるかよ」
出会ったのは半年くらい前。付き合ってからだいたい四ヶ月。今の家に越してきてからは、一月半とちょっと。
隣国から流れてきたレオンハルトがうちに転がり込んだのが馴れ初めだ。その頃から家賃は払われたり、払われなかったりしたが、今の家は少々高い。
あいつが部屋が欲しいと言うから、便のいい場所で借家を探したのだ。
近くにカフェがあって、市場からは遠くて、でも商店はあって、しかし貴族街からは距離がある。ようやく見つけた好立地の物件だった。
「出てけって言われたのが、よほどショックだったんじゃないか? さっさと謝った方がいいって」
「いや、でも、家賃払わないのも悪いだろ」
金がないわけじゃないのに家賃を納めないレオンハルトが全面的に悪いし、俺は無理な取り立てをしたわけじゃない。
「言い方が悪かったとか? シャブリエさん、口が悪いから」
「うーん……気楽な感じだったけど」
出て行く直前のあいつは、何か他所事を考えているようだった。もしかしたら表情が分かりにくかっただけで、傷付いていたのだろうか。
「思ったより苦労してんだな。若い美人つかまえて浮かれてるとばかり」
「別に苦労ってほどじゃないけどよ。まあ、あいつ変わってるから」
気まぐれな恋人に振り回されるのは、大変ではあっても苦労ではないだろう。嫌なら離れればいい。俺は現状、レオンハルトと離れたいとは思っていない。
さて、変わり者をどうやって連れ戻すかと悩み始めたところで、居間の向こうから物音がした。
鍵を開ける金属音、足音、それからく木の軋む音――玄関に通じるドアが開かれ、クルクルの金髪が現れた。
「本を取りに来た」
目が合った瞬間、レオンハルトは平坦な声でそう告げた。
「アンリ、来ていたのか。それは私のルーペか?」
「あ、はい! 今日お持ちするって話でしたので……」
アンリが言いながらこちらを振り返った。俺は不機嫌な顔を作ってみてから、すぐに笑ってしまった。演技は苦手だ。
本かよ。着替えとかじゃないのか。やっぱりおかしなヤツだ。
「なんの本だよ」
「アエスティ語の辞典だ。先日買ったばかりの。今すぐ必要だ」
レオンハルトは出て行った時と同じように、手帳とペンとインクを持っていた。
どうやら朝から今まで原稿を書いていたらしい。きっと、いつものコーヒーハウスで。コーヒーと煙草の匂いがコートに染み付いている。
「もしかして来月号の?」
「安心しろ、あと少しだ。月末には間に合う」
雑誌に掲載する記事を毎月依頼しているのだ。原稿の締め切りは守れるのに、家賃の支払いはどうして遅滞するのか。
「あー、俺、帰ります。ルーペはとりあえず納品ってことで、お代は後日でいいですから」
アンリが居心地悪そうに立ち上がる。
「変わり者同士で気が合ってるみたいだからさ、なんていうか、俺が言うのもなんだけど」
重そうな鞄を担いだアンリは、俺を見て、レオンハルトを見て、もう一度俺を見てから肩をすくめて片眉を上げた。まるで六十過ぎのベテランみたいに。
「お互いのこと大事にした方がいいんじゃない?」
お代は後日、と念を押してアンリは出て行った。喧嘩に巻き込んだことは申し訳なかった。あとで詫びを考えなければ。
レオンハルトはルーペの入った化粧箱を小脇に抱え、奥の書斎へ入った。俺も後を追って滑り込む。
「おかえり」
「帰っていない」
「いや、帰って来てるだろ」
「すぐに出る」
辞典は本棚の一番下。レオンハルトは増えた荷物を片腕で抱えながらかがみこんだ。白い指が重い革表紙を探り当てて引っ張り出す。
「荷物は捨てるな。取りに来る」
「このまま戻ればいいんじゃないか」
「何故?」
「今夜どうするんだよ。泊まるとこあんのか?」
レオンハルトは綺麗好きだ。旅行者用の宿では耐えられないとよく言っていた。今から泊まれる場所、それも清潔な部屋を探すとなると難しい。
「あなたが出て行けと言った」
「家賃を払えって言ったんだ。出て行けってのは、今後もずっと家賃を払わない場合で、今すぐって意味じゃない」
驚くほど透き通った青い瞳が眇められる。不思議そうに。
ステンドグラスとかの、あの青だ。空色よりもっと透明な。ステンドグラスは赤や黄色が多いが、青はたまにしかない。色を出すのが難しいらしい。そういう貴重な青。
「私は言葉を覆すことを嫌悪している」
紅も塗らずに赤い唇が固い声を発する。
「あなたはすでに二度覆した。出て行けと言った時と、戻れと言った今。二度だ。論理の破綻した者と一緒にいるのは苦痛だ」
「いや、それはお前の早とちりだ。まず俺は一度も出て行くなと言ってない。だから出て行けって言ったのは、何も覆してない。それに戻って来いっていうのも、一度出て行ったやつにしか言えない言葉だ。何も破綻してねぇ」
「屁理屈だ」
「なんとでも」
意地だ。ああ言われればこう言い返したいという、その場の勢いみたいなもの。
こちらも出版業を生業にしている身だ。口喧嘩で負けるのは癪に障る。
一個一個の言葉を抜き出したら、覆したと言えなくもない。でも前後に他の言葉がある。
その辺はレオンハルトの方が得意だろうに。文筆で分析できることを、なぜか口頭では理解できないらしい。
「人間、気が変わることもあるし、言い間違えもある。もう少し俺の話聞けよ」
「では聞いてやる。なぜ戻れと言うのか」
「恋人に帰って来いって言うのに、細かい理由がいるのかよ」
「筋が通らない。出て行けと言ったのはあなただ」
「くどいな」
「くどくない」
睨み合って、それからレオンハルトは何やら考え込んだ。視線を左下に向ける。
記憶を探っているように見えた。あの時はどうだったか、あの話は誰から聞いたものだったか……そんな表情だ。今朝出て行けと言った直後と同じ顔。
「家賃はいいから戻って来いと言わないのか?」
「家賃は払えよ!」
「なら、もう私とはやっていけないのでは?」
「そこまでは言ってねえ」
いつも以上に話が飛躍する。今度は視線を斜め上に向けた。
「私の身勝手にもう耐えられないのでは?」
「身勝手の自覚あるのかよ」
「みなそう言った」
互いに言葉の応酬を止めた。
レオンハルトはさすがにまずいと思ったのか、バツが悪そうに口元を手で覆う。俺は反射的に深いため息を吐いた。
「失言だ」
今のを失言だと思える常識はあるらしい。つくづく掴みどころのない男だ。
「その……あなたには言っていなかったが、ルテティアに来る前のことだ。アエニスティベルクで同居していた者がいた、のだが」
そんなことは分かっていた。
こいつが今までも誰かの家に転がり込んでいたことなど、見れば分かる。こんなフラフラした、顔のいい、浮世離れした人間が、真っ当に部屋を借りて暮らすはずはない。
しかしレオンハルトは、重大な秘密を明かすようだった。珍しく歯切れが悪い。
「その前は、故郷のスイーオネスの都市を転々としていた……しかし、現在は手紙のやり取りもなく」
「あー、俺は過去は気にしない方だから」
別に過去の遍歴を聞きたいわけではない。
しかし確認したいことはあった。
「アエニスティベルクで一緒だった男は、お前の過去を詮索しなかったのか」
「女性だ」
「……そうかよ」
「聞かれなかったので答えていない。知らないはずだ」
彼女が気づかなかったって? そんなバカな。
気づいていたがわざわざ口にしなかっただけだ。彼女も俺と同じように、レオンハルトの様子を見ていればすぐに察しただろう。
「みんなって言ったな。何人くらいだ」
「十二人だ。私は記憶力がいい。正確な数字だ」
「そこは重要じゃねえ」
十三人目か。あんま縁起のいい数字ではない上に、予想より多かった。
「誰にも話さなかったのか。その、点々としてたこと」
「聞かれなかった」
「……そんで、そのうち揉めて、お前が出て行ったと」
「世話になっている身だ。出て行けと言われれば、仕方がない」
レオンハルトが異様に言葉にこだわるのは、著述業の性だと思っていた。言った、言わない。言ったことを覚えているか。文章の解釈、単語の定義に至るまで、日常会話でも容赦なくこの手の話を振られる。
こいつにとって、言葉は世界なのだ。胸に秘めた想いなどないのと同然。文字通り、口にしなければ伝わらないと信じている。
「やっぱ面白いなあ、お前は」
クルクルの金髪を捕まえて頬ずりしてやる。柔らかいのだ。この金色は。
「おかしな人だ。私に出て行って欲しかったのでは?」
「言い方が悪かった。家賃をちゃんと払って、そんでこれからもここにいてくれ」
レオンハルトは数回の瞬きの間に、ガラス玉みたいな目をクルクルと二周させた。
「あなたの意図は理解した。金は払う。出て行くのもやめよう」
「愛してるって、伝わったか?」
予想通り、ガラス玉は見開かれた。分かってない。
分かってないから、俺は言葉と行動で示すことにしよう。十二人の愚かなる先人に学んで。
まず、遅くなった朝の挨拶をすることにする。
手触りのいい髪に指を差し込んでも、レオンハルトは拒まなかった。口にはしないが頭皮に触れられるのが好きなのだ。猫みたいに目を細めるのですぐに分かる。
少しの身長差は、互いに数センチ近付けば埋まる。レオンハルトが顎を上げ、俺は肩を丸める。
今日は練り歯磨き粉ではなく、コーヒーの味がした。
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