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コーヒー牛乳の憂鬱

お弁当の時間って何を飲んでましたか?
わたしが幼稚園の時は、麦茶とかほうじ茶とか、たぶん、そんな何某かのお茶だった。

先生がやかんを持って回ってきて、一人一人コップについでくれるの。
でも、時々、違うものが出た。
覚えてるのはコーヒー牛乳。

みんな、いつもその日をすごく楽しみにしてたんだよね。
もちろん、わたしも。
そう、あの日までは……。



「泣くな」
彼はそう言った。

彼のびしょ濡れのスモックからも髪の毛からも、茶色くて甘い匂いのするコーヒー牛乳が、ぴちょんぴちょんと雨垂れのように滴っていた。

よく見ると、いや、よく見なくてもその目だって濡れていた。
彼の真っ赤な目を見た途端「ぴちょん」という音が胸の中でこだました。

それは、コーヒー牛乳の雫が立てる音だったのだろうけれど、わたしにはそれが、彼が必死に堪えている涙がこぼれ落ちる音に聞こえてしまった。


それまで遠慮がちに、えくっえくっとしゃくりあげていたわたしの口から、それはそれは大きな泣き声が溢れ出した。

うえーんえーんえーん。
サイレンのような泣き声をあげながら、わたしはグシャグシャになったコーヒー牛乳の紙パックを握りしめていた。

「ごめん」「ごめんね」「ごめんなさい」

何度も何度も言おうとしたけれど、どうにかして口を開くことはできたけれど、「ごめん」は、のどのところでつかえて全然出てきてくれなかった。

「ごめん」がどんどん大きくなって、すごくすごく痛くって、痛くて痛くて、わたしはさらに泣いた。


すると、彼はまた言った。
「もう泣・く・な。泣きたいのはオレの方だよ」 

への字に結んだ口。その小さく震える口を見ながら、わたしは思った。
そうだよね、泣きたいよね。なのに泣けないのか。こんな時でも我慢しなきゃいけないんだ。

男の子って、男の子って……。
あぁ、なんて大変な生き物なんだろう。


そう、あの頃はまだ、そんな時代だったのだ。
男の子なんだから泣くんじゃない!って、みんなが当たり前みたいに言うものだから、言われた方もまた、当たり前のようにそれを守ろうとしていた。

男だって女だって、もっと言えば、子供だけじゃなくて大人だって、泣きたい時には、泣いてしまっていいのにさ。



年長さんにして、あっぱれな心意気を見せた彼に、しかし、世間はあまりに冷たかった。

つんざくような泣き声をあげているのが、いつも大人しいわたしだとわかった途端、あろうことか先生達は彼を叱りつけたのだ。

「どうして、いつもいつも みおちゃんをいじめるの!」
コーヒー牛乳を浴びせられてびしょ濡れになった彼は、完全に被害者なのにである。

先生達は、彼をこんな姿にした犯人であるわたしのスモッグや手を優しく拭き始めた。
いや、いや、いや、違うでしょ?わたしだよ。この子に頭からコーヒー牛乳をぶちまけたのは、わたしなんだってば。
ちょっと!ちゃんと見てよ!ねぇ!


このあまりにも理不尽な展開に軽い目眩を覚えながら、わたしはさらに大きな声で泣いた。
彼の汚名をそそがなければ!と言う使命感で、わたしの身体は火がつきそうなくらいに熱くなった。

わたしは、握りしめた紙パックを先生の目の前に差し出してブンブンと振った。
「わたしがやりました」そう自白しているつもりだった。

実際に出てきたのは、鼻水と「う、う」という間抜けな声だけだったのだけれど。
でも、周りのクラスメート達が口々に事の顛末を先生に説明していたから、きっと大丈夫、そう思った。



先生は涙と鼻水でぐしょぐしょになったわたしの目をじっと見て、コクリとゆっくり、そして力強く頷いた。
あぁ、もうこれで彼は怒られずに済むのね。神様、ありがとう!
そう胸をなでおろした次の瞬間、わたしは奈落の底に突き落とされた。

「このおとなしいみおちゃんがこんなことするなんて。あなたはいったい何をしたの?ほんとに困った子ね」

はぁ〜?何でよ!何でそうなっちゃうんだよ〜!

うわーんうわーんうおーんおん。
わたしの口からは、この日一番、いや、人生で一番大きな泣き声が飛び出した。



わたしは彼が嫌いだった。
いつもいつもニヤニヤしながら意地悪なことを言って来るし、何かというと腕や髪をひっぱる。
休み時間になると、男の子達をけしかけてやって来ては、何故だか知らないけれど、わたしを砂場でゴロゴロと転がし続けた。
ほんと、あれ、何だったんだろうか?

入園してからずっと、わたしは彼のせいで憂鬱だった。
毎日少しずつ、でも確実に積もっていく憂鬱は、たぶん出口を探していたんだろう。


その日はコーヒー牛乳の日だった。
いつものお茶じゃなくて、紙パックのコーヒー牛乳が配られる日。
みんなその日を楽しみにしていた。

もちろんわたしもそうだった。きっと、彼だってそうだったはずだ。
それが分かるから、あの時も、そして今だってまだ、胸がぎゅっと痛くなるのだ。

たぶん、彼にとってはいつものお遊びだったのだと思う。
だけど朝からずっとちょっかいを出され続けていたわたしは、もう限界だった。

座っているわたし達の前に、先生が一つ一つコーヒー牛乳を配っていく。
家ではあまり飲ませてもらえない甘い牛乳。わたしもこの日を楽しみにしていたから、自分のお弁当箱の隣にコーヒー牛乳が置かれた時には、きっと思わず口元が緩んでいたはずだ。

「お前、いっつも弁当残してるんだから、これもいらないだろ?」
彼はニヤニヤしながらそう言うと、ひょいっとわたしのコーヒー牛乳を攫って行った。
「あ……」
わたしは何も言えなかった。
それを見て彼は、さらに尊大な態度を取った。

「何だよ?文句あんのかよ?」
返してくれと言えばきっと返してくれたはずだ。今ならわかる。
でも、いつも意地悪をしてくる彼への怖さが先立って、わたしは黙るしかなかった。 

「お前の分もオレが飲んでやるからな」
そう言いながら両手にコーヒー牛乳を持って小躍りしている彼に、周りの女の子達は「かわいそうでしょ!早くみおちゃんに返しなさいよ!」と挑んだ。

「うっせーな、わかったよ」とヘラヘラ笑いながら、彼はわたしにコーヒー牛乳を突き返してきた。
そこで、ただおとなしく受け取ればよかったのだ。
いつもみたいに何をされても我慢していたみたいに。

でも、わたしはそうしなかった。
彼が「ん」と言いながら、目の前に差し出すコーヒー牛乳を、わたしは受け取らなかった。
ブンブンと激しく首を振って断固拒否の構えをとった。

「何だよ」「ほら」とコーヒー牛乳をわたしの目の前で振る彼と、同じくらいの速さでブオンブオンと首を振り続けるわたし。

その時、わたしの中では、未だかつて経験したことのないような黒い気持ちが芽生えていたのだ。
それは雷雲のようにむくむくと大きくなっていって、ついにはわたしを呑み込んでしまった。

あいつが理不尽に奪い取ったものを、何もなかったように黙って受け取れって?
冗談じゃない!
すっかりどす黒くなってしまったわたしは、何度目かの攻防の末に、ついに彼の手からコーヒー牛乳をむしり取った。

その勢いに彼が「ん?」と目を丸くした。
わたしは今もその顔を覚えている。



そこから先の記憶は、なぜか全てがスローモーションだ。
わたしは、彼の頭のてっぺんからコーヒー牛乳を蒔いた。

気分的にはぶちまけたかったのだけれど、幼稚園児の握力では、紙パックの中身はそう簡単には出てこないからだ。

わたしは、彼の頭の上で紙パックをぎゅうっと絞った。
それはまるで、植木にお水をあげてでもいるかのような勢いで彼に降り注いだ。
ゆっくりと、そして優しく、彼はコーヒー牛乳を浴びていた。

彼はじっとしていた。
わたしが全てをぶちまけ終わるまで。
周りの子達はギャアギャア囃し立てていたけれど、彼は、彼だけは、ただじっと静かにわたしを見つめていたのだ。最後まで。


わたしは、グシャグシャになった牛乳パックを握りしめながら泣いていた。
彼がコーヒー牛乳まみれになっていく様を見ながら、泣いていた。

彼への憎しみなんて、もうとうに消えていた。
ただ胸が痛くて、痛くて、苦しすぎた。
そんな時だった。その声が聞こえてきたのは。

「泣くな」
本当はいい子だったんだなと、その時になってやっとわかった。
遅すぎたけど。



そんなことがあってから、わたしは彼が苦手じゃなくなった。
結局、先生に彼の汚名を晴らすことはできなかったし、「ごめん」も、たぶん言えないままだったような気がする。


でも、もう彼は、砂場でわたしを転がすようなことはしなくなった。
男の子達がわたしを砂場に連れて行こうとすると「なぁ!あっちで遊ぼうぜ」と、さり気なくみんなを遠ざけてくれたりもした。
だから、わたしはもう「ごま汚し」のように全身砂まみれにならずに済んだ。

お絵描きをしていると、以前は、ぐりぐりと落書きをして邪魔して来たのに、あのことがあってからは「お前上手いな」とか言って、黙って横で見ているようになった。

お遊戯の時間には「なんか全然わかんねぇんだけど」と言って来たりもした。
「こうやるんだよ」と踊って見せてあげると、けっこう真剣に「こう?こう?」とわたしに確認しながら何度も踊っていた。

だから、わたしはわかったのだ。
お遊戯になると彼がいつもふざけていたのは、実は、なかなか踊りを覚えられない焦りを誤魔化していたのだと。
最初からちゃんと話していればよかった。
もう遅いけど。



突然キレた危ない女。
わたしは、まさしくそれだ。
なのに彼は、たったの一言も恨言を言わなかった。

彼には、本当にかわいそうなことをしてしまったと思っている。
だけど、どんなに後悔しても、もうなかったことにはできない。

だから、わたしは、今でも、コーヒー牛乳を見ると泣きたくなる。
あの日の彼に、何本だって好きなだけ、飲ませてあげたいと思う。
頭からぶちまけるのではなく、優しく差し出せたらいいのになと思う。
ちゃんといい子だったあの子に。

「ごめんね、ありがとう」
今からでも届くかな?
もう名前も覚えていないんだけどね。



今日のお弁当は……

卵焼き
ブロッコリーの昆布茶和え
みんな大好きイシイのミートボール
カレーコロッケ
味噌漬け生姜
五穀米



今日も お弁当 受け取ってくださってありがとうございます。

次は 何を詰めようかしら?
また、がんばって作ります。




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