ドラマで勉強(虎に翼・第51話)

「虎に翼」第54週がスタートしました。

轟とよねさんが無事であったことは嬉しい情報でした。

復員したばかりかと思われる轟。
手に持っているのは花岡判事餓死を知らせる新聞。

その新聞を持ち、地べたに座り、一升瓶をラッパのみして酔い潰れていると足蹴にする人物が。

よねさんらしい再登場。

轟をカフェー燈台に連れて行き、水を渡す。
そこでわかったこと。

・よねさんは変わらず法律相談を続けている。
・空襲で腕に火傷をおい、マスターは焼き死んだ。

「焼き死んだ」って想像すると壮絶です。
よねさんを守ってくれたのかな。

壁に大きく筆で日本国憲法第14条が書かれていた。
まるで血が滴っているように。

よねさんは言う。
誰もが横並びであるのこの憲法(社会)は自分たちの手で掴みたかったものだ。
戦争のお陰ではなく。

ライアンも言っていたけど、戦争がなければこの憲法は生まれなかったのだ。
どの国も多くの人を失い、残った人に悲しみを与えた戦争で。

よねさんは「自分」ではなく「自分たち」と言った。
海辺のシーンが映し出された。
寅子と見ている景色は同じである。

よねさんは轟に「惚れていだんだろう、花岡に?」と問う。

カフェー育ちのよねさんは、惚れた腫れたを沢山見てきた。
最後に花岡と会った時に気がついたらしい。

「バカなことを言うな」と慌てる轟に「バカなことじゃないだろう」と真顔で伝えるよねさん。

「白黒つけさせたい訳でも、白状させたい訳でもない。腹が立ったなら謝る」
「ただ私の前では強がる意味がない」と伝える。

階段に轟、柱を挟んでよねさん。
この構図は寅子と優三さんの逆パターン。

大切な胸の内を明かす時は顔を合わせず、同じ方向を向いて座ったほうがいいのかも。
柱という物理的な境界線が「お互いに必要以上踏み込ままいから」という配慮の象徴となっている。
寅子と優三さんの場合は下宿先のお嬢さんと書生の一線の意味もあったかな。

今回は薄い壁の役割ですね。
「よねさんはは居るけど居ない」
轟は一人語りのように感情を出すことが出来た。

薄い壁の向こうに人がいる。
その人に向けて話してはいないけど、聞いてくれている人がいる。
大事だな。

誰かを思う気持ちにバカなことなどない。

その気持ちがどういう種類のものか。
本人も気がついていないことも多い。

「強がらなくていい」と言われ、轟から出てきた花岡への想いは一つ一つが具体的だった。
花岡という存在は轟の喜怒哀楽と直結していた。

確かにいつも轟は花岡の隣にいた。
真剣に見つめ、話し、親身になって手を貸し、陰になって様子を見たり。
いつも本気で花岡と接していた。

脚本家の吉田恵里香先生が「透明化された人たちを描きたい」とXにポストしていた。

それぞれが交差したベンチの横にいてハーモニカを吹いている傷痍軍人。
私が子供の頃はまだ駅や通りにいた。

子供だから「なんで軍服着ているの?なんで地面に座っているの?なんで足がないの?」と祖母に尋ねた記憶がある。
その都度「見ちゃいけない」と手を引っ張られた。

本当に傷痍軍人だったのか、ただ体が不自由になった人が軍服を着ていたのか。
その辺が曖昧な時代でもあった。

少し大人になり、私も見ないように、居ないこととして通り過ぎるようになった。
「透明化させられた人」がいたことをドラマを見て思い出した。

ドラマは最初から大きな荷物を背負って歩く女性、階段に座って新聞を読む女の子。
普通であれば背景に溶け込むはずの人を印象に残るように描いてきた。

しかし同じ画面にいても寅子とその人たちはレイヤーが違うというか、パラレルワールドのように交わることはなかった。

社会人となり、生活の為に働きに出て初めて「大丈夫ですか?」と声をかけるシーンがあった。
今日、初めて傷痍軍人さんにお金を入れるシーンがあった。

寅子はいつでもベンチに座っている。
よねさんと轟は階段だ。
その下、地面に傷痍軍人さん。

きちんと仕事をして、真っ直ぐに生きている人はベンチに。
行き先が定まらないよねさんと轟は階段に。
透明化された傷痍軍人さんは地面。
しかし衣装が真っ白なのだ。

衣装だけ比較すると一番汚れがない。
透明化されたものは存在しないも同然だ。
実は存在しないと思い込んでいるものこそ美しい、という意味なのだろうか。

寅子の衣装はいつも華やかだ。

よねさんと轟は薄汚れている。
無彩色なので汚れているように見える。

よねさんは「私は何者でもない」と言っていた。
寅子のレイヤーから見ると何者でもないかもしれない。
背景にしか映らない人たちかもしれない。

しかし、よねさん自身は「何者でもない自分」を理解し、その自分を社会に活かしたいと思っている。

中途半端なレイヤーにいるからこそ、よねさんは轟に声をかけることが出来た。
轟に自分の気持ちを出させ、花岡の死と向き合わせることが出来た。
よねさんは「してやる」という気持ちはなかったと思うが、結果的に轟を立ち直らせることが出来た。

惚れた腫れた。
つまり恋愛は占いでも相談事のトップにくるほど重要なものだ。
恋愛は希望も絶望も与える爆弾であるが、人が人を思うこと。
「愛されたい」と思うことと「愛したい」と思うこと。

人には「くっつきたい」衝動があると言う。
肉体的なことだけでなく精神的なことも含めて。
当たり前に持つ感情で「心」そのもの。
人間の幸福度を支える大切なものだ。

タロットではカップ(水)で表現される。
水は人の70%占める成分で潤いの素。
水無しでは人は生きていけないのだ。

だからよねさんは「バカなことじゃない」と真剣に話をしたのだ。
惚れた腫れたは渦中の本人は気が付きにくく、隣で見ている第三者のほうが把握し易い。
よねさんはそういう環境だったので、人の心を見る目が育っていたのだろう。
早く弁護士になれますように。

寅子には己の為に突き進む力があり、よねさんは寄り添う力がある。
どちらが良し悪しではないけれど、寄り添う人がいるのは頼もしい。
その存在に気がつき、心を許せることも素晴らしいことだ。

恋愛だって「顔が好き」「趣味が合う」「尊敬できる」など相手に対する思いは人それぞれ。
よねさんが「好き」ではなく「惚れた」を使ったのは本当に素敵。
「どこが好き?」みたいな無粋な話にならなくて済んだ。

今回、よねさんはとても積極的に自分の気持ちを伝えた。
初めて自分から握手を求めたのでは?

「私がいるから」と寅子に言えなかったこと。
その結果、寅子を潰してしまったこと。
その経験がよねさんを強くしたのかもしれない。
相変わらず口の利き方はあれだけど。

マイノリティーと括るのではなく、透明化されそうな側の泥臭いリアルの人たちの一部(例)としてよねさんと轟がいるのではないだろうか。

だって、個々に人とは違う面が必ずあって、自分でも気が付かない気持ちがある。
当然隠したいものだってある。
ただ、華やかな人が目立つだけで、無彩色な人たちのほうが圧倒的に多いのだから。

最後に私たちが知っている、よねさんと轟の顔に戻って本当に嬉しい。
この二人は他人の幸せを考えて行動出来る。
きっと良い事務所になっていくだろう。

寅子とはすれ違ってしまった。
今はまだ違うレイヤーにいるのかもしれない。
少しずつ重なっていき、また巡り会う日が近づくといいな、と思う。

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