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思いと距離を取る

最近、中学生の娘の調子があまりよくない。
学校に行けないこともある。
昨日も朝起きられず、起きて電車に乗ったところ、具合が悪くなり学校に予定の時間を大幅に過ぎても着かなかった。連絡も取れず、学校とは連絡をとって先生にも探していただくことになった。先生には本当に感謝しかなく。

そんなバタバタしたなかで、やることをやりつつ 何をしているかといえば、自分の中で起きていることを見ている。
昔、仙人のような人に言われてから20年近く、好奇心もあってやっている。

昨日だったら、心配したり大丈夫かと思ったり、なんで連絡取れないの!とほんのすこーしだけイラっとしたり。
そのかすかなイラつきはやっぱり心配だからなのだと思ったり。
どこかでは大丈夫だろうと思ってるけど、本当かな。無理に大丈夫と思いこまなくてもいいよね、と自分に声をかける自分もいたり。
だけど深いところでは大丈夫って感じているな…という思いがきたり。

そんな自分を見ている。
見ているというか、来たものを知覚しているというか。
こんな風にやっていると、あることに気づいてくる。
何かというと、自分と思いの間に少し距離が取れてきているということ。
あえて言葉にするなら客観的になるとでもいうのだろうか。
以前はあれほど一体化していたのに、一体化しなくなる。

この距離が取れている感覚が分かってくると、楽になる。
思いに必要以上に振りまわされないって楽。
さらには、面白いことに、起きる出来事が何かの流れに乗るように上手く収束していくことにも気づいた。

癌の時も、義母が脳梗塞で倒れた時も、ある組織がピンチの時も、幼い娘が階段から落ちた時も、娘の受験直前に父が亡くなった時もそうだった。
自分もやることはやっているけれど、人の知恵では考えられないようなことが起きるのだ。

「思いが来たら流す」ということも同時に教えてもらった。
達人は来た瞬間に気づくから、すぐに消える(らしい)。
でも、私のような素人もこれを心がけていると、思いや感情を必要以上に増幅させなくて済む…ということにある時気づいた。

流さないでいると感情と思考がくっついて、どんどん増幅するのだ。
マイナスと言われる感情は思考にとって、好ましいものらしい。
プラスと言われる感情にはあまり興味がないようだ。
だから、嬉しい、楽しい等はすぐに流れていくのに、悲しい、辛い等はなかなか流れないことがある。
(流しても流れていかない感情、繰り返しくる感情は、その感情が持っている信念をじっくり聞いてあげる機会を持つといいと思う。)

でも、「思いが来たら流す」を続けていると、思考に翻弄されなくなるだけでなく、以前ほどマイナスの感情が留まらなくなっていたのだ。
もちろん起こった出来事にもよるから、留まることもある。
でも、以前よりも早く、たとえば悲しみなら悲しみの状態から抜け出せるようになった。
流しているのだから、流れもよくなるのかもしれない。

ただ見ていると、思いは沸いては消えていく。
ポコポコ浮かんで、ポコポコ消えていく。
また同じ思いが来たなら、その思いは来たいんだろうから、それでいい。
追いかけない。

そして、だんだん気づいてきた。
思考も感情も自分のものだ、自分の内から出てくると思っていたけど、そうではないのだということに。
私のものではないのだ。
ただただ、浮かんでは消えていく。
だから基本流してそれ以外はしない。
この思いはいいとか悪いとかそんなことは考えない。
そんな思いが出てきたら、それもそのまま流す。

とここまで書いておいてなんだけど、まだまだ思いに翻弄されているな~と思うことはある。
しょっちゅうびびるし、子どもと喧嘩してムカッとするし、あああ~と落ち込むし。
人間だもの。
でも、それすらもそれでいいんだと思う。
浮かんでは消えるの刹那、世界は美しいと感じることがある。
それにしても20年はあっという間…。

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