田中律子歌集『森羅』

プレミアムフライデーには菜の花をいつぱい摘んであなたとねむる /田中律子『森羅』「木の芽月ーー春を病む」

 プレミアムフライデーという制度は、2017年に個人消費額の向上をねらって日本政府と経済界が提唱したものである。月の最終金曜日に社員が残業をしなくてよい会社があるのはそのためだ。このおかげで、例えば旅行業界の売上高は大きく向上したと言われており、消費の拡大に効果的な制度だったと証明されている。

 この歌では、そんなプレミアムフライデーに主体が「あなた」と菜の花を摘み、退勤後眠るまでの時間を穏やかに過ごす様子が描かれている。【菜の花を摘む】という行為は、ここでは恐らく消費活動ではないものだと推測できる。お金を動かさなくても人生を楽しむことができるかもしれない、希望の一首だ。

 田中律子さんによる歌集『森羅』は、ながらみ書房から出版された第三歌集である。表紙の星空が印象的で、とても上品な装丁だ。繊細な短歌における、ときには躊躇いながらも前に進んでいこうとする主体の様子が美しい。

定年まであと一年をどう生きるポストイットがこんなに余る /田中律子『森羅』「のあーる」

 人生の節目らしいものとして「定年」の他に進学や転勤などが考えられるが、中でも毎日の労働がその日を境になくなるという点で「定年」は大きなものであるように思える。ポストイットは、450枚単位などで売られていることが多い付箋で、一度買うとなかなかなくならないものである。(それゆえに買うときはある程度の勇気が必要だ。)ポストイットにおける「こんなに」の実感の奥には、定年という節目を大事に思っており、かつ若干寂しがっているような主体像が見えてくる。

苦手なり回転とびらうつかりと一周したらこの世をとびだす /田中律子『森羅』「beyond beyond」
どのひともみんなやさしい猿田彦珈琲店に本棚のあり /田中律子『森羅』「ロング・ロング・アゴー」

 周囲の人間に対する主体の心があらわれている二首。「回転とびら」の歌の主体は、周囲の人間を自分自身と比較しながら、やや負の方向に評価しているようである。一方で、「猿田彦珈琲店」の歌の主体は、純粋に周囲の人間のやさしさを正の方向に評価しているように見える。世の中にはあらゆる人がいて、広範囲に価値観が合う人もいれば、どうあがいても価値観の不一致に終わる人がいるものである。

無花果がぱかつと口あけ笑つてる ああ秋空はこんなに遠い /田中律子『森羅』「空にコインを」

 なんとなく感じるのは、この「無花果」の恐ろしさだ。「ぱかつと口あけ」の一瞬らしい景には不気味さ・嫌な予感みたいなものがあり、主体のきっとよろしくない状況に読者も一気に引き込まれる。追っても追っても遠い「秋空」を追いかけている主体に辛くなってしまうが、「遠い」ことをわかっているだけ期待できる未来が存在するということであり、実は前向きな歌なのではないかと考えている。

24日 8月 2021 田中律子歌集『森羅』 ながらみ書房HP

歌集『展開』豊冨瑞歩 発売中 234首収録 https://c2at2.booth.pm/items/3905111