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純猥談の成り損ない

彼とは中学生の頃に通っていた塾で出会った。

私以外の塾生のほとんどは皆、同じ中学校に通っていた。違う中学の子でも中1や中2の頃から通っていたようで、既に関係が出来上がっていた。
そんな環境に、高校受験に向けて中3になってから入塾した私はなかなか馴染めずにいた。
そんな私を馴染ませてくれたのが彼だった。

馴染めない女の子と架け橋になった男の子のラブストーリー。
笑っちゃうくらい在り来りな話だ。人懐っこくて子犬みたいな彼はきらきらした瞳と屈託のない笑顔で休み時間の度に沢山話しかけてくれた。
今思えば私はその時から彼のことが気になっていたのかもしれない。

特に何がある訳もなく、高校受験が無事に終わった。もともと彼と私は第一志望校が違うので、高校は勿論別々だ。  彼は当時スマホを持っていなかったので連絡先の交換は出来なかった。
少しだけ寂しいような、そんな不思議なきもち。
それぞれの高校でそれぞれの新しい生活が始まった。

少し大きめの制服が様になってきた頃、私の中で"彼"というひとつの思い出は、"高校受験"という大きな思い出の中の一部に変化していた。

していたのに。

紫陽花の元気が無くなってゆく嫌に暑い日だった。私のインスタのアカウントに彼からフォローリクエストが来た。懐かしい名前に胸がきゅっとなった。何か始まるかも。

私の直感は正しかった。

それから私がストーリーをあげたら時々反応してくれて、私も彼のストーリーに同じくらいの頻度で反応して。
"高校受験"の中から"彼"がまた独立していく。変化に少し戸惑いながらも楽しんでいた。
きっとあれは恋だったと思う。

細々としたやり取りを重ねてもう2年は経った。木々が桜色に染まり始めた頃。
彼から映画に誘われた。

いや、誘ったのは私の方か。
流れで決まったような、そんな曖昧な形の約束をした。
地元が同じだから映画館なんて近くにあるのに、都内まで映画を観に行くことになった。場所はお台場。いかにもなデートスポット。
恋愛経験の少ない私は既に期待してしまっていた。デートだと思ってるのは私だけかもしれないと必死に言い聞かせた。

電車に揺られながらスマホを見ている彼。私は何処を見れば良いのかわからず、流れる景色をただ眺めていた。たまに彼が
「見てこれ」
と太陽みたいに笑いながら彼の友人のストーリーを見せてくる。私は呑気にもこの行動を緊張をほぐそうとしているのだと解釈した。

見ようとしたわけでは無かったが、彼のインスタの検索画面が目に入った。そこには「# お台場デート」の文字。

____デートだと思っていいんだ。

飛び跳ねそうな心臓を抑えて平然を装った。

お台場に着いてからお昼ご飯を一緒に食べて、海沿いを並んで歩いて、そして目的の映画を観た。夜、観覧車にも乗った。少しの時間だけど手も繋いだし、左頬にも触れられた。
最初の方は45cm以上あった距離も観覧車を降りる頃には45cm以内に縮まっていた。

初デートは大成功だったと思う。全部が全部、真新しくてどきどきした。何もかもがきらきらして見えた。ふたりの間に流れる甘い雰囲気を肌で感じていた。
きっと彼もその雰囲気を感じたのだろう。その日のうちに次のデートに誘われた。
初デートから1週間後に水族館に行くことになった。

その日は曇天だった。
今にも降り出しそうな空。天気予報は午後から雨。
傘を忘れてしまった私は、待ち合わせ場所に向かう途中で傘を買おうと店に寄った。

何を話そうかな。彼はどんな服で来るのかな。今日の私、変じゃないかな。

なんてそわそわしながら傘を選んでいたが、天気予報の雨マークが消えていた。水族館は室内だし買わなくてもまあいいか、と思ってしまった。
傘を買わなかったことで大きな後悔をするとも知らずに。

少し遅れて待ち合わせ場所に現れた彼は、いつかの日と同じ屈託のない笑顔で笑いかけてくれた。

「待たせちゃってごめんね、楽しみすぎて寝れなくてちょっと寝坊して急いでたら傘忘れたー」

彼も楽しみにしててくれたことに嬉しさを感じつつ、私は小さめの後悔をした。買っておけば相合傘とか出来たかもしれないのに。
我ながら可愛らしい後悔だ。
浮かれてるな、私。苦笑している私を他所に彼は相変わらず私の知らない誰かのストーリーを見ていた。私は相変わらず流れる景色をただ眺めていた。

水族館に着いてから不意に彼が右手を差し出した。

「暗いから、さ」

少しぎこちなくこう言った。
左手で彼の右手を握る。
ごつごつとした手に男の子なんだなと改めて思わされる。
誰かと手を繋いで歩くなんて何年ぶりだろう。
ゼロ距離ってこういうことなのか。
前よりもぐっと近づいた距離に心臓が痛いほど鳴っていた。

館内を1周してから 大水槽の前のベンチで泳ぐ魚たちを見ながら色々な話をした。
またふいに彼の右手が私の左頬に触れた。
左手にも触れた。
私の身体に彼が触れる度に心臓がどこにあるのか分かるほど音を立てていた。


水族館を出てふたり並んで歩く。
手は繋いでいなくても距離は45cm以内。所謂、密接距離。
20分くらい周辺を散歩していたら公園を見つけた。
彼の提案で公園で休憩をすることになった。ブランコに乗りながら、また他愛もない話をした。10分しないうちだろうか。雨が降り出した。

その瞬間。

彼の纏う空気が変わるのが分かった。
きらきらしていた彼の瞳から光が消えた。 
優しい顔からあの笑顔が消えた。
人を惹きつける柔らかい雰囲気が変わった。
彼の目が、彼の声色が、何もかもが不機嫌を物語っていた。
少し、いやとても焦った。
途中まで楽しかったのに。こんなことになるのなら傘を買っておけばよかった。
軽率に傘を買わない選択をしてしまった自分を助走をつけてぶん殴ってやりたい気分だった。

近くに傘を売っているような店は見当たらなかった。

彼は突然こう言った。


「あの屋根の下で雨宿りしよう」


含みを持たせて。
今までの不機嫌な彼がほんの一瞬いなくなったことに少し引っかかりつつも、私もそれが最善だと考え屋根の下に移動した。
屋根の下で5分ほど雨をしのいだ、私にとっては30分にも感じられたその時間。
また不機嫌に戻るかもとひやひやしていた私は、地雷を踏むのが怖くてずっと黙っていた。


「ここのホテル入らない?中で雨宿りしない?」

沈黙を破ったその声に耳を疑った。
今のは、誰の言葉?彼の言葉?ホテルなんてどこにある?本当に雨宿りだけ?ホテルに誘うってそういうこと?
頭の中を無数のクエスチョンマークが埋め尽くす。理解が追いつかなかった。

周囲に人はいない。
その声は間違いなく私の右隣から発せられていた。
驚いて顔を上げると、彼に言われるがまま雨宿りをしていたその屋根はラブホテルの屋根だと気づいた。謀られた。
だらしない笑顔、いやらしい目つき。
猥りがましいその男を私は知らない。
知りたくもない。
太陽みたいに笑っていた彼を、人懐っこくて子犬みたいな彼を思い出せなくなった。

ああこの人は。浮かれていた自分を恨んだ。
最初からこれが狙いだったのね。

恋愛経験の少ない私はボディタッチの意味を好意だと純粋に信じきっていた。
でも、そうじゃなかった。浅はかだった。
後悔、嫌悪、屈辱、落胆、怒り、恐怖。
あらゆる感情が一瞬のうちに私の心を支配した。
でも、答えなきゃ。
断らなきゃ。
波風を立てないように。


「うーん。でももうすぐ止みそうだよ?」

振り絞った声は自分でも驚く程はっきりした拒絶を表していた。つい数時間前に彼に触れられた左頬が引きつっているのがわかる。薄暗い館内で彼とずっと繋いでいた左手も微かに震えている。
傘をあの時買っておけば、こんな惨めな思いをしなかったのだろうか。綺麗な思い出のままでいられたのだろうか。

「あと5分経っても止まなかったらどっか入ろう。別にここじゃなくても。ね?」
その場しのぎの提案をしたが、どうやら天が味方してくれたようだ。雨は3分後にあがった。
私たちはまた歩き出した。50cmの距離を開けて。

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