見出し画像

共に生きること

昔、ハムスターを飼ったことがある。
餌やりは、主人の仕事。
掃除と水を替えるのは、私の仕事。
子どもたちは、ケージの中に一切触れようとしなかった。

主人は、餌やりのときだけ、いそいそとケージを開けて、ニコニコしながらハムスターに向き合った。

小動物は、とにかく動きがせわしない。
主人の手が入ってくると、ハッと顔を上げて、チョロっとやってきて、ご飯を掴む。
ヒマワリの種が好きで、手に持ってポリポリやっているその様は、無条件でかわいい。

ヒマワリをポリポリ、回し車をグルグル。
ハムスターとは、そういう生き物だ。
子どもたちは、遠巻きにその様子を見ていた。
生き物を飼うことが悪いとは思わない。
でも、私は「なんか変だな」と思っていた。

ハムスターの寿命は、2年ほどらしい。
我が家のハムスターも、だいたいそのくらい生きた。
毎日、毎日、変わらずポリポリ・グルグルやっていたけど、ある時期からグルグルをしなくなった。
試しに、ヒトの手で回し車を回してみたが、興味無し。
あんなに好きだったのに…歳なのかな?と、その時、初めて思った。

ハムスターを飼い始めて、まもなく2年になる。
多分、その予感は当たっていたのだろう。

毛並みがパサついて、やや不格好になってきた。
うんちが、以前よりベタついている。
ケージを噛んだり、登ったりする頻度が減った。
これが「衰え」なのか。

それでもヒマワリはポリポリしてくれたので、ポリポリしているうちは大丈夫だと思っていた。

あるとき、目ヤニで目が開かなくなった。
それまで、動物病院に連れて行ったことは無かったけれど…受診しようか?と、主人に相談。

主人は気づいていなかったらしく、ちょっと驚いてから「様子見よう」という。
回し車をグルグルしていないことや、うんちの変化も話したが、やはり気づいていなかったらしい。
それでも「様子見よう」との見解だった。

動物は、語らない。
特に小動物は、表情すらよくわからない。
わからないことは、不安だ。
私は、ハムスターの目ヤニが気になって、時間があればハムスターを見るようになっていた。

お水は飲めているだろうか?
ヒマワリは食べられているだろうか?
うんちは減っていないか?
とにかく、つぶさに観察する。

そんな私の様子に、主人は呆れた。
「気にしすぎだよ。ほかに、大事なことあるだろ」

その言葉に、私は反論しなかった。
確かに、いくら気にしたってキリがない。
感情移入しすぎては、精神衛生上も良くない。
それはわかる。

でも、この子は「家族」じゃないのか?
ハムスターの変化に気づいていたのは、私だけ。
主人も、子どもも、なんでわからないのか?

数日後、いよいよお水が飲めなくなってきた。
うんちも出ていない。
ヒマワリを口に近づけても、持とうとしない。
そもそも、寝転がってばかりいる。
目を開けようとしない。

いよいよなんだ、と私は思った。
スプーンで水を与えようとしても、受け付けない。
目元がピクッとしたり、お腹が上下していることだけが、生の証。
そっと触れれば、温かい。
お腹が一生懸命、上下している。

子どもたちは、はれものに触れるように、一定の距離を置いて近づこうとしなかった。
「もう、長くないよ」と伝えても、いまいちピンとこないようだ。
私は、悲しかった。
我が家の情操教育は、実を結んでいないと思った。

夜。
みんな寝静まって、私とハムスターだけのリビング。
時刻は、24時。

でも、この子は朝を迎えられるかわからない。
このまま、そばにいたいと思う気持ちと、現実の狭間で揺れた。
おそらく、私にできることはなにもない。
できるのは、お腹に触れて、ぬくもりを確かめることくらいだ。
あと何時間だろう。
できれば、そのまま寄り添っていたかった。

でも、しなかった。
翌朝、ハムスターは息をしていなかった。


生き物を飼ったのは、ハムスターが初めてではない。
主人は、なにかにつけて家の中を賑やかそうとする。
ただし、世話はしない。

観葉植物、鉢植え、家庭菜園など、「やろう」とは言うし、実際に買っては来るが、水をあげる姿を見たことはない。
昆虫、金魚、メダカを「飼おうか」とは言うし、買ったり、捕まえたりはしてくるが、水槽や虫かごを洗うのは必ず私。

花だって植木だって、水が無ければ枯れてしまう。
虫も魚も、餌が無ければ死んでしまう。
主人も、子どもたちも、そういうことをケロッと忘れている。
「誰かがやればいい」と、多分、無意識に思っているのだろう。

いや、もう「誰かがやればいい」じゃなくて「ママがやるから大丈夫」くらいにしか思っていないと、わかる。
でも、それは違うんじゃないか。

私は、ハッキリ言って生き物が好きじゃない。
そんなもんに割く時間があるなら、一秒でも長く寝ていたい。
ところが、主人は面倒事を増やすだけ増やして、私に丸投げする。
なぜなのか。
なにがしたいのか、なんのためにそれらを迎え入れようと考えるのか、意味がわからない。

ある時から、私は「生き物を飼っても、私は一切面倒みないよ」と宣言することにした。
子どもたちは「えー」と言ったし、主人は「冷たい」と言った。
そうじゃないだろう。
目の前の生き物の命をないがしろにしているのは、君たちのほうじゃないのか。

長男は、昆虫が好きだ。
小学校低学年の頃は、バッタやコオロギを捕まえては「飼いたい」と私に言ってきた。
私は「自分で餌やりするならいいよ」と、伝えて様子を見た。
ところが、面倒を見るのははじめだけで、徹底することはできなかった。
仕方なく、私が様子を観察し、定期的に手を入れる。
だが、小学校低学年の長男のためなら、まあいい。

まったく同じことを主人がするのが、許せなかった。

子どもたちは、私の言いたいことを理解しているので「生き物を飼いたい」とは言わなくなった。
私は、それを寂しいことだと思っている。

子どもたちは「自分で面倒をみたい」とは、思わないのだ。

それでも、主人は懲りずに植物を買ってきたりする。
動物じゃなければいいと思っているところが、とんでもなく浅はかだと思う。
現に今まで、放置してきた観葉植物を、いくつも枯らしてきたというのに。

共に生きることは、そんなに簡単ではない。
毎日、家族四人のご飯を作り、掃除洗濯しているから、わかる。
生命が途切れないよう、当たり前に保つことは、なかなかに大変なんだ。

高齢の義母と同居していたとき、家族で在宅介護を担っていたのは、ほぼ私一人だった。
入浴介助とリハビリで、介護サービスを利用していたし、ショートステイも利用していたから、私一人ですべてやったなんて言わないけれど。
主人は、手出ししなかった。
病院への付き添いも、食事も、一切なにもしなかった。
自分の母親なのに。

晩年は、施設へ入所しており、主人は後になってそのことを悔いていたけれど、なにを悔やむのかと思う。

私が義母の介護に携わっていたときは、毎日、生命の重みを全身で感じていた。
「今、私がこの人から目を背けたら、明日にはどうなるかわからない」と、切実に思った。

生きるということは、当たり前じゃない。
家族として、同じ空間を共にするのに、なんでそんな簡単なことがわからないんだろう。

先月の母の日。
毎年、母の日には、カーネーションの鉢植えを買う。
今年も、主人が、今は亡き義母にと赤い鉢を買った。
リビングに置いてあり、きれいに咲いていた。
だが、主人はやはり、水やり1つしない。

育て方を調べようともしない。
私は、毎日水やりをしたし、窓辺に置いたりもしたけれど、それ以上のことはしなかった。
だって、あれは私が買ったわけでもないし、私がもらったものでもない。

主人が、亡き義母にと、買ったものなのだ。
それは、主人が手入れすべきじゃないのか。
主人は毎日、朝から晩まで家にいるし、時間は私よりよっぽどある。

我が家のカーネーションは、いつも夏さえ越せない。
主人は、それが当たり前だと思っているかもしれない。
本当は、大切に育てれば冬を越して、翌年も花を咲かせる。
鉢植えなんだから、そうだろう。

明日は、父の日。
我が家のカーネーションは、父の日を前にして、もう枯れている。


もし、あなたの心に少しでも安らぎや幸福感が戻ってきたのなら、幸いです。 私はいつでもにここいます。