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「ギブ」することで、満たされたい

「ギブする」という言葉は、割と耳馴染みがある。
即ち「誰かに何かを提供する」という意味だが、これはSNSでは頻繁に見る言葉な気がする。

「ギブ」とは「差し出す」ことなのだから、悪いことではない。
でも「ギブする」は、「下心のある行為」と読む人もいる。
わかる。

デパ地下の試食は、試食してもらうことで「食品を買ってもらう」ことが目的だ。
「初回無料」「試供品」「お試し価格」これらすべて、「初めてさん」を対象に商品価値をギブすることで、購買意欲を掻き立てるのが目的である。

マーケティングによくある手法。
返報性の原理に則っている。

つまるところ、ギブする側は、価値提供することで、その後の「見返り」に期待をするわけだ。
ここまではわかる。

ここからは、私自身の話になる。
私は、人に聞かれてもいないのにアドバイスをするのが好きだ。
なんなら、しょっちゅうなにかを聞かれたいし、なんかしら答えたい。
おせっかいの塊みたいな人間で、典型的な「かまってちゃん」でもある。

そんなわけで、Twitterやってるし、オンラインコミュニティは5個くらい掛け持ちしている。
自分でも、しょっちゅうコミュニティを立ち上げてしまう。
なにがしたいのか。
時々、自分でも自分がよくわからなくなる。

質問されたいから、質問箱もやっている。
あまりいい質問は来ない。
私の下心がバレているのだろうか?

どっちかっていうと、バカ丁寧に質問に答えるタイプだと思う。
なぜか?
わからぬ。
答えたい、その一心である。

おそらく、私が何に対しても「答えたい」と思うのは、「認められたい」という思いが人一倍強いせいだ。

自分でも理解不能だが、実は自己肯定感低めなのかもしれない。
お付き合いのあるクライアントさんは、そこそこちゃんと褒めてくださるが、「褒められた!」と思ったことはほとんどない。

例えば「とても良かったです!」みたいなお言葉をいただいても
「私の気を良くするために、このような言葉を選んでくださったに違いない」とか、穿った考えでみてしまう。
お褒めいただいても、素直に受け取れない。

そして「今はうまく行っていても、いつ契約を切られるかわからない」という思いが、胸の奥に常にある。
常に。
それは、一種の強迫観念にも似た思い。

油断するな。
スキがあれば、いつだって切られてしまう。
いつ捨てられてもおかしくない。
心のどこかで、そう思っている。

認められたい。
その思いの裏返しが「なにかに答えたい」に繋がる。

小学生の頃は、授業中に、わかればわかった数だけ手を挙げた。
周りがドン引きするくらいには、手を挙げた。
成績がずば抜けて良かったわけではないが、私があまりにも授業に対する積極性をアピールするものだから、友達は「つむぎちゃんは頭いい」と、勘違いしていた。
実際、成績はど真ん中の平均値だったのだが。
「わかるよ!」と、アピールしたかった。

今やっていることも、まったく同じだ。
「これわかる!わたし、答えられる!」と、思えば手を挙げる。
たまに間違える。
それでも、繰り返し手を挙げる。

Twitterでも、オンラインサロンでも、誰が見ていようといなかろうと、バンバン手を挙げる。
なぜか?
答えたいのだ。
とにかく、答えたい。
答えて、答えて、満足したい。

聞いた人の疑問が晴れればいい、とももちろん思うし、私自身が認められたいという思いもある。

でも、やっていることは小学生の時の「挙手」そのもの。
自分自身のためでもあるし、アピールしたいがためでもある。

私のやっていることは「ギブ」とは、ちょっと違う。
正直、見返りはほとんど求めていない。

「認められたい」ただ、それだけ。
誰かに頼って欲しい。
私を求めて欲しい。
認められたい、満たされたい。
私はいつだって、飢えている。

なにかに答えることで、その衝動がおさまるなら、安いものだ。
「認められたい」ただただ、その塊なのだ。







もし、あなたの心に少しでも安らぎや幸福感が戻ってきたのなら、幸いです。 私はいつでもにここいます。