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自殺や虐待死の悲しい報道がある度に、同時に社会へ静かな絶望を覚えることについて

「今日、午前○時ごろ、○○で…自殺と見て捜査しています」
「○○で、○歳の○○ちゃんが亡くなった事件で」
 よくある報道です。つらいです。そして、テレビは擦りきれたレコードのように(←いつか使ってみたかった)繰り返します。

「悲しい結果を防げなかったのか」「最悪の結果をどうして防げなかったのか」「死ぬ前に相談して」

 そう、意図して言っているわけじゃないことはよくわかるのですが、こう聞こえてしまいます。
「死ななければいいのだ」
と。

 大事なことをさて置いて、情緒的な言葉でバンドエイドを貼って、或いは実質、臭いものに蓋をして、「頼むから死なないでくれ」「死ぬことだけはしないでくれ」。

 それを聞いた死にたいと思っている人は、そのメッセージを受け取ったまさに死のうと思っている人は、どうすればいいのでしょうか

 果たして死ななければいいのでしょうか

「生と死は等価値なんだよ、僕にとってはね」(渚カヲル: 新世紀エヴァンゲリオンTV放映版)

 ぎょっとする言葉かもしれません。この言葉は、でも、当時中学生だった、死にたい気持ちと生きていた私が、とても共感した言葉です。まさに、生と死は等価値でした

 苦しみの中で今のまま生きつづけること。
 苦しみと辛さの中で生きつづけ、これからなにがあるかわからない中で、生きていくことの絶望感。
 今の苦しみ辛さは確実に終わるに違いないすぐ近くにある自らの死。
 生きながら苦しみの中、なかば耐えに耐え耐え抜いた先にあるどこかで寿命かなにかで死を迎えるという言わば緩慢で苦しい自殺と、すぐそばにある自殺とどちらを選ぶべきと言えるのか。

 生きることは無価値どころか、マイナスの価値だと思っていました。そうすると、悲しむ人はいるでしょうけれど、誰にとっても等しく訪れる死、その死の価値に貴賤はないはずで、ならば、少なくとも私の死はマイナスではない。生と死は等価値どころか、死の方が価値があると、10歳ごろから思っていました。
 いまでも、生>死なのか、わからない自分もいます。

死ねば確実に楽になれる。けれど生きていても楽になれない

 そう思っていました。逃げることであろうと誰が悲しもうと、誰に迷惑をかけようと、私の人生の責任を誰かがとってくれるわけじゃない。私の苦しさ辛さを誰かが直ちに解決してくれるわけじゃない。死ぬなと言っても、それは誰にもできません。確実に解決できる。それに希望を見出したのです。
 生きていてもこの苦しさ辛さの正体は完全にはよくわからないし、解決できそうにない。ならばどうすればいいのか。希死念慮と死ねば解決できる、死ななければ辛い日々が続く、それが渦を巻いていました。

悲しむ人はいるだろう。でも。(※悲しむ人の有無には個人差があります)

 とても卑怯で残酷だと思うけれど(もちろんそんな意図があるなんて思ってはいないですが)、「必ず悲しむ人がいる」という指摘をする人もいます。これも、ただ「死ぬな」と
そうでしょうか?必ず悲しむ人がいると、思えるでしょうか

 必ず悲しむ人がいると言える人は、そう言える分、幸せなんだと思います(ちなみに私もこれを書けるだけ幸せな人です)。
 誰だって、親だっていろいろ、きょうだいだっていろいろ、周りの人たちだっていろいろ、学校や職場の人たちだっていろいろ、先生方だっていろいろ。中には、悲しんでくれるような身近な人がいない人もいます。しかも少なくない。亡くなったという報せを聞きショックをうけて悲しくて泣くひとはいるでしょう。でも、生前、本人にとって"身近"な範囲にそんな人がいると思えない、どうしても思えない、わからない、そんな状況のなかで、死を選ぶ人もいるのです。親のいない子もいれば、近親者みなに酷く扱われる子もいます。天涯孤独な人なんて、意外といるのです。更に学校や職場でも酷く扱われるとなれば、どこに居場所がありましょう。誰がその死を悲しみましょうや。その死を聞いて悲しむ人がいても、本人にとってはなんのメッセージにもなりません。ただただ、苦しみを永らえさせむとする枷にしかならないのです。

 悲しむ人がいる場合ももちろんあります。家にもどこにも居場所はなく、辛いけれど、家族の誰かが想ってくれていることはよく知ってることもあります。矛盾するようですがそういう家庭も多くあります。そのなかで死にたいと思っている人も少なくない。
 いじめをする側は遊んでいると思っている、或いは、感情表現が苦手でどうしても結局いじめる形になってしまうけれど、嫌いだからいじめるわけじゃない、そうわかっていじめられていて、どうしたらいいかわからず苦しんでいる子もいて、中には死を選ぶほどの場合もあります。
 悲しむ家族がいるから、死を選ぼうとする場合もあります。こんなこと家族や友人に言えないけれど、たぶん彼らは自分の様子がおかしいことに多分感づいている。彼らをそれで苦しめる悩ませるくらいなら、私は死を選びたい。残されたひとは悲嘆に暮れるだろうけれど、いつかしっかりと私の分まで歩いてくれるだろう。だから…。よくあることです。不況が続いた時代、事業に失敗して負債を一人で背負って、或いは思いつめて自殺なんてことも少ないないと聞いています。

それでも、自らの死について、私が聞かれたら

 ある親しいお友達がいます。彼女はたぶん客観的に見たら壮絶な人生を生き、病もあり、何度も自殺未遂をしました。それが自殺未遂で済んでいるのは、その幾つかは私が通報したからかもしれません。
 私は、死にたい気持ちや意志を止めるようなことはしない(できない)が、具体的な行動にでた場合は、淡々と通報したりして、できるだけ何事もなく無事に失敗できるよう努力することに決めています。独善的だけど、私にとって大事な周囲の人を失うのが嫌だから、私がそばにいる限りはフォローしたいからです。

 そんな彼女が私に聞いたことがあります。「私が死んだら悲しい?」「私がいなくなっても平気じゃない?」「私がいなくなってもやっていけるんじゃない?」「私のこといつかきっと忘れるよね?」
 繰り返し聞かれたことがありました。その度に、「そうじゃないよ、私は悲しいよ、辛いよ、あなたが辛いことを知ってるから、だから辛いよ、悲しいよ。これは私が勝手に思うことだけど、あなたにも人生があるはずなのに、それを得られずに死ぬなんてそんなの悲しいよ。辛いよ。そんなのおかしいよ、あっていいことじゃないよ。あなたはあなたの人生を生きることができるはずじゃん。苦しんでいるのはあなただけどさ。一番辛いのは、悲しいのはあなただけどさ。あなたは大事なお友達だよ。絶対忘れないよ。あなただけじゃなくて誰のことも忘れないよ。忘れないし、忘れたくないよ」

 わたしだって、そう聞かれたら、いろんな言葉を使って、できるかぎりの言葉を使って、受け止めて、そう言います。

自殺や虐待死は、一番は本人が、次いで身近な人がとても苦しい結果。その死は否定すべきではない

 自殺も虐待死も、辛く苦しいなかで起こります。自殺は苦しみ辛さのなかで見出した一つの結論なのは間違いありません。それまで、死ぬほど辛い時間を過ごしていたわけです。

 虐待死も、多くは壮絶な、それは凄惨な環境のなかで結果として起こります。死ぬまで凄惨な苦しい時間を過ごしていたわけです。

 そんな亡くなった子たち方たちの死をきいて、「どうして防げなかったのか」なんて、遠い話です。他人事もいいところです(繰り返しますが、そんな意図があるとは思ってません)。

 まずは、今まで生き抜いたことを称えるべきです。「今までよく耐えましたね」「よくここまでがんばりましたね」「もう、もう耐えなくていいんだよ」「もう頑張らなくていいんだよ」「もう、辛いことなんてない」

 そんな形で死を迎えることはとても悲しく、悔しく、痛ましく、辛いことですが、それは、そのように生き抜く人生を彼らに背負わせたのは私たちの社会であり、その責任は彼らを凄惨な状態に置いたままにしていた社会が引き受けるべきものです。

 その死を「どうして防げなかったのか」などと言っている場合ではないのです。

自殺・虐待死を防ごうとするのは、間違っている

 「死を選ぶことだけはしないでくれ。生きていればかならず道がある」「生きていればいつか光が見える」そんな言葉もあります。ほんとうにそうでしょうか。

 なるほど確かにそうかもしれません。生きているひとは生き残ったひと。だからその人にとっては確実にそうかもしれません。それは否定できませんし、間違いなく大切な、否定されるべきでないとても大事なことです。

 しかし。自殺する人が苦しみ、つらさしんどさの中で死ぬというのは、社会の中で、死を選びたいほどの苦しみを味わい、絶望し、悩み、結論してしまうのです。それは社会がその人を殺していると言い換えられます。その社会が、その人に冒頭の言葉を言えるものでしょうか。その社会のなかで当事者が光を見出せるものでしょうか。見出せというのも悲痛な叫びだと思いますが、無責任で残酷です。結論から伝えても、伝わりません。どんなに頑張ってもまだ報われていないひとに、頑張れば報われるよほら、というのと同じです。必要なことと決定的にずれています。

 また、実際、自殺を選ぶほどの経験。している人や、壮絶な虐待を受けている人が、たまたま死を選ばずに、また、死ぬ結果をならず、生きることができたら、どんな人生を送れるでしょうか。

 残念ながら簡単ではありません。
 そもそも、苦しみや辛さ、凄惨な状況は簡単に変わりません。
 仮にそれを生き抜いていこうとしても、心や身体に想像以上に傷跡が残ります。いや、傷跡なんていったら間違いです。心身に深刻な後遺症が残ります。苦しみや辛さ、凄惨な状況が劇的に改善したとしても、心身に辛さを抱えながら、生きるしかないのです。どんなに良くても、過酷な人生が待っているのです。

 私には、誰かにそんな人生を歩んでほしいなんてとても言えません。私自身サバイバーだからこそ、思います。誰にもそんな人生は歩んで欲しくない。だから、死ぬなとは私には言えないし、自殺・虐待死を防ぐべきだとは到底言えない。自殺・虐待死を防いで、過酷な人生を歩めなんて、考えられません。

世にあふれる残酷な言葉の数々。そして乗り越えられない、"共感の壁"

 誰かに辛い死を迎えて欲しくない。それは多くの人にとってそうだと思います。

 だから、前述の言葉のほか、死ぬな、生きていればなんとかなる、命さえあれば、あなたの一日は誰かが生きられなかった一日、命を大事にしてという言葉や、命の大切さの教育が行われたりするのだと思います。
 それには共感やいたたまれない気持ちがあるのは間違いないでしょう。決して悪いことではなく大切なことです。

 でも。自殺や虐待死で死を迎える人は既にそれまで苦しく辛い、凄惨な状態の中を生きている。これはなかなかわかりません。想像がつかないからです。
 想像しろとも思えません。だって想像つかないに決まってるんですから。想像を超え理解を超えたことが身近ないろんなところで本当は起こっているのです。

 本質的に人は他人の経験を深く理解はできません。まして極端な話となれば難しい。だから、どうしてもわからないのです。理解できないのです。事は共感の壁を超えたところにある。

 理解できなくていい、わからなくていいのです。せめて、想像できないようなことが身近なところで普通に起こっている、それがどんなことか、知ろうとしてほしい、社会の少しでも、そうしてくれたら、少しずつ、ほんの少しずつだけれど、物事がよくなっていく、助けられた命、救えた人生は、そうして救えるのだと、考えてみてほしいです。

ほんとうに必要だったもの

 それでは、自殺や虐待死という結論に至るひとたちに必要なものは何でしょうか。
 少なくとも、その死を阻止することではありません。その時には既に深刻な或いは壮絶な苦しみの中にあります。その死に至るはるかはるか、はるか手前で深刻にならないように凄惨なことにならないように手立てを講じる必要があるのです。

 そのためにはどうしたらいいか。端的にいうなら、誰も孤独に苦しんだままにしない社会が必要です。誰も苦しまなくていい社会無理をしなくていい社会を目指すことが必要です。
 苦しいと言える、辛いと言えることも大事です。家族や学校・職場以外の豊富な人間関係を作れる社会づくりも必要です。
 医療・福祉の充実や、そのアクセスの充実も必要ですし、そのための人員や予算の手当ても必要です。
 もちろん、災害や不況を避ける、その影響を最小限する努力も必要です。
 この社会にはいろんな人がいて、いろんな困ったがあってそれが深刻にならないようフォローされる仕組みづくりももっと必要です。

 上に書いた、理解してほしい知ろうとしてほしいもその一歩です。
 前に書いた“しんどい”は、こころとからだのSOS。逃げることも大事ないっぽも、つらさ・苦しみの中にいるかたへの、私なりの答えです。ここでは、頼ることと、しんどいを軽減しやり過ごしながら道を探していくことを書きました。

 この社会には不足がたくさんあります。でもそれを乗り越える道具を持っているのが人類で、そのための道具の一つが智恵であり学問であると思うのです。

 実際に、試行錯誤したり、現場で地道にひとつずつ尽力なさってるかたがたくさんいます。浮ついた、死を防ごうとしたり、不登校を応援したり、生きていればなんとかなるなどと無責任なことをいうのではなく、死ぬな、死を防げなかったのかと言いっぱなしにするのではもちろんなく、もっと根本に、現実的に向き合っている方々がたくさんいます。それでもぜんぜん足らないのです。

 苦しさ辛さのない世界は、イデアルな、理想的な世界ものかもしれません。でも、それを目指さずして、自殺や虐待死は防げません。それを目指すという覚悟をして、取り組むことが必要です。

本人と本人を取り巻く社会がともに健康なら。

 死ぬか、生きるか(生きるか、死ぬかではないです)を天秤に掛けたことについて、私はそもそもその時点でかなり深刻で“病んでいた”、心身が不健康だったと今では思っています。当時はみんな似たようなものなのかな、と漠然と思っていました。
 また、一つ前のエントリでも書きましたが、人は誰でも障害や病の要素を持っています。その障害や病が深刻なら、その方はそれだけ生きづらく、苦しみやすく悩みやすく、辛い人生になりがちです。

 当然ながら、誰もが心身健康であるわけにはいきません。何かしら不具合な部分があるのもまた当たり前です。それでも、充分、こころとからだが機能していればなら深刻なことになりづらく、うまく機能しない部分が大きければより苦しさ辛さを抱え込みやすいわけです。

 そういう人々の苦しみや辛さや、こころやからだの機能不全を、社会がフォローできないとき、社会もまた程度の差はあれど機能不全に陥っています。

 社会の仲間の一人が、苦しんで悩んで辛く深刻なのに、社会がうまく対応できない、そんな社会は果たして健康といえるでしょうか。あまり健康でない、なにかしら機能不全を起こしていると言えると思います。

 機能不全を起こした社会で、誰かが苦悩の中に亡くなって、それをただ嘆くことしかできないとしたら、私たちはなんと無力で、なんと前時代的で、世界はなんと無情でしょう。

 でも、そうじゃない。叡智とエネルギーの文明社会に私たちは生きているのです。少しずつ良くしていけるはずです。

いま、ここまできて、私自身はどう振り返るか

 私はいま生きていてよかったかどうかわかりません。けれど、なんとか生きていけるのかもしれない、という地点に、ようやく立つことができるようになりました。

 ここに来るまで、たくさんのひとの優しさやお力もありました。どうにもならない、つらいこと、どうしていいかわからない混乱、絶望、残酷なこと、理不尽な苦しみもたくさんありました。

 私になにが必要だったか。私の状態や私の置かれた状況がよくない状態・状況だと、できるだけはやく誰かに気づいて何か手立てを講じて欲しかったという気持ちが強く強くあります。

 でもどの時点だろう。10歳よりはるか前。7歳よりもたぶんもっと前。物心つく前…。誰に何ができたろう。

 今だともっといろんなことができるけれど、それでも早期の介入は難しいでしょう。でもそれが必要だったのです。

 母の生きづらさ、苦しみ、つらさ。父の生きづらさ。周りのお友達の生きづらさ、つらさ、苦しみ。先生方の苦悩や苦しみ、生きづらさ。

 それらが少しでももっとフォローされていれば、その積み重ねがたくさんあれば、何か違ったかもしれないと思います。

 私自身こうやって書いているのは、かつての私自身を少しでも楽にしたいから、私がみてきた人たちの苦しみ辛さ悩み生きづらさを少しでも楽にしたいから、そして今この瞬間つづいているいろんな人のたくさんのことや、将来のたくさんの人のいろんなことを少しでも楽にしたいから、です。

頼まれなくたって、生きてやる

 ここまで、世間にあふれる自殺や虐待死を悲しみ憤るメッセージの致命的なすれちがいについて書いてきました。
 それらを批判はしますが、否定的に物申したいという意図はありません。けれど、大きく見過ごすものがあるのです。

 身近なところに悲痛な苦しみ、凄惨な苦しみがたくさんあり、それは死の手前に存在するのですし、その中で生きている人がたくさんいます。そういったひとたちの実際や、苦しみ、生きづらさを知ってほしい、そういう人たちへのメッセージが欲しいです。

 彼らは頼まれなかったって生きているけれど、死んでいないし生きているけれど、その苦しみは実は死を選ぶかことや虐待死の手前かもしれないのです。どうか、彼らにとどくメッセージを。そしてそのために、知ってほしい。

 それを全て理解する必要はありません。わかる必要はありません。必要ないし、わからないものだからです。それでもわかろう、知ろうとすること、身近にたくさんあると知ること、いろんな身の回りの人の苦しみを知ることは、自殺や虐待死を防ぐことはもちろん、それどころか、たくさんの頑張っている人たちにとっても生きやすい社会を作っていくことにもなります。

 もうすこし生きやすい世の中を繰り返し少しずつつくっていく、つくっていこうとすることが肝要だと思います

皆さまのお心は私の気力になります。