見出し画像

GIDってなにさ?ってお話

最近はLGBTQ、GIDについて、世間の理解もかなり浸透してきたようで、ナチュラルに受け入れられることも多くなったように思います。
もちろん、まだまだ偏見なども多いですが、きっと徐々に当たり前の存在になっていく過程にはあるんだと思います。

そこで、特にGIDってなに?ということを、改めて確認してみたいと思い、このnoteを書きます。

心の性・性自認と、性違和

GID・トランスジェンダー・トランスセクシャルについて、「心の性と身体の性が一致しない」「身体の性とは違う性自認を持つ」と説明されることが多くあります。

この説明が全く間違ったものだとは全く思いません。
でも、心の性・性自認についてうまく説明されることもあまりありません。言葉が独り歩きしているように思います。
「心の性、性自認ってなんだろう」、考えたことありますか?多くの人は、漠然とそういうものなのだろうとイメージしていてくれていて、それはとてもありがたいことです。

実際のところ、みなさんは「自身の性別」についてどのように感じたり、意識したりしますか?
多くの人は、身体や所属が男性・女性だから、という感覚で持って、自分の性別について意識するのではないでしょうか。
自分の持った身体の性別は自分がよく知ってるし、生理的現象や形状から否応なしに再認識するでしょう。また、小さい頃から世の中は男女に分かれていて、自分がどちら側か、考えるまでもなく、よく知っています。

これは、GID・トランスセクシャル・トランスジェンダーのひとでも、全く同じことです。ただ、「身体の性に違和感を感じたり」、「じぶんがどちら側か違和感を感じたり」するのです。

その違和感は人それぞれですが、極論それだけだ、って言っても過言ではありません。

ここまでで、心の性・性自認は関係してません。心の性はあるのかないのかわからないし、「じぶんがどちら側か違和感を感じたり」するあたりに性自認が関係する程度なのです。

性違和の多様性

「身体の性に違和感を感じる」「(性別的な意味で)自分がどちら側かということに違和感を感じる」これが、GID・トランスジェンダーの本質です。
この違和感をまとめて「性違和」と呼び、具体的なところは程度も内容も含めて人によって様々です。

身体の性への違和感は、例えば、自分の性器について強い嫌悪感をもったりします。それは時に生きることが嫌になるくらい強い気持ちになったりします。一方で、軽い嫌悪感で済む人もいます。手術を望む人もいれば、手術までは望まない人もいます。手術の程度も様々です。手術しても身体の性別の違和感が完全に溶けてなくなるとは限りません。私は手術をして楽になりましたが、しんどさは残っています。

身体の性の違和感は、男性型の身体か女性型の身体かどちらを望むのかというと、決してそうではありません。もちろん逆の身体的性別への移行を望む人もいますが、そうじゃない形を望む人もいます。

典型的にはトランスセクシャルと呼ばれる身体的性別の移行を望む人々が目立ちますが、実数ではおそらくそうでない人の方が多いかもしれません。

「自分がどちら側の性別に属すのか」ということへの違和感(社会的性違和)は、例えば典型的にわかりやすい例で言えば、「身体が男性の幼児が、自分は女の子だと主張する」などが挙げられるでしょうか。

つまり、自然と分けられる「自分はこっちの性別」に対して、「否!」となってしまうのです。これも程度内容は様々で、周りの男性/女性をみて、自分が男性/女性であることに若干ミスマッチを感じる、というようなひとは本当に多くいます。自分は男性/女性だとよくわかっているけれど、反対の性にシンパシーを感じるという場合もよくあります。
私の場合は、「振り返って考えると、身体は男性だけど、それ以外はだいたいなんとなく女性側じゃないのかなぁ」というかたちでした。つまり、私は比較的自由にユニークに生きてきて割とそれでいいと思っていたので、社会的性違和をそこまで意識したことがなかったのでした。

この「自分がどちらの性別に属すのか」への違和感も、本来的に男性だ、女性だ、という形で現れるとは限りません。単純に男性とも女性とも違う、別の性の形だと思う人もいます。もちろん社会的性別移行を望む人もいて、これが典型的でわかりやすいトランスジェンダーですが、この「自分はどちらの性別に属すのか」に大なり小なりいろんな形の違和を覚える人たちのことが、トランスジェンダーなのです。

トランスセクシャルとトランスジェンダーは別の概念です。

社会的性に違和感なくても身体的性に違和感がある人もいます。
社会的性性別移行と身体的性別移行を望む人が典型的でわかりやすいですが、実際はそう単純ではなく、そうでない形を模索する人も実に多くいます

ジェンダーアイデンティティ

ここまでお読みいただいて、ありがとうございます。どうお感じになりましたか。これらのことを「心の性」・「性自認」で表現していいのでしょうか。
心の性、性自認は使いやすいわかりやすい言葉です。その利益は大きなものですが、必ずしも的確な表現ではないのです。

身体的性違和、社会的性違和をもつ人々のありようをうまく捉えた言葉はないのでしょうか。

あります。「ジェンダーアイデンティティ」という言葉です。性自認も元々はgender identityの訳語でした。

身体的性違和、社会的性別違和は、その人の人生のいろんなところで顔を出したり、大きな意味を持ったりします。その人が周りの人と生きていく中で様々に直面するものです。自らの身体の性、社会的性がどうなのか、悩み、見定めようとし、苦しむのです。ゆえに、これは、genderのidentity、ジェンダーアイデンティティのお話なのです。

その人その人のジェンダーアイデンティティは様々です。一人の人のジェンダーアイデンティティも、どのようなライフイベントに直面するかなどでその様相は大きく変わります。

そのジェンダーアイデンティティが尊重されること、これがGID/トランスセクシャル/トランスジェンダーの大事なところです

性別移行

さて、(どちらも難しいことですが)社会的性別移行をし、身体的性別移行を果たすと、戸籍上の性別変更ができるようになります。ところが、これも問題があるのですね。

戸籍上の性別は社会的扱いに大きく影響しますから、社会的性別の取り扱いに直結します。
そうすると、例えば、男性型身体かつ女性型社会的性別の形、女性型身体かつ男性型社会的性別の形を望む人の「行き先」がなくなってしまうのです。

これは人権の問題です。

通称「特例法」と呼ばれる、現に子がなく反対の性別に似た形の身体を手に入れた成人が戸籍上の性別を変更できる制度は画期的なものですが、これでは掬えない、漏れてしまう人が多くいるのです。

もちろんいろんな問題を内包するのは間違いありません。ですが、例えば例外的な人の稀な問題行動と、多くの人の当然の権利を天秤にかけてはいけません。別問題だからです。

他にもGIDを巡る諸問題・難しさはたくさんありますが、今日はこのくらいで。

皆さまのお心は私の気力になります。