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深い海の底を落下し続けるきみ(或いは私)へ

(画像はある水族館で撮影したくらげです。同行してくれた友人たちに感謝を送ります)

2020年の8月31日の夜に

 去年から今年へと、また一年が過ぎてしまいました。
 去年は心を刺激される、人の亡くなる事件が多かったけれど、今年はなお、プライベートでも、人の死が近く感じられました。

今年は大変な年

 2020年が始まって、8ヶ月が終わろうとしています。年が明けてすぐ、新型感染症が話題となり、瞬く間に広がりました。社会は一変しました。そのコロナ禍は、まだ続いていて、社会が落ち着き一応の平穏を見せるまでまだまだ時間が掛かりそうで、終わっていません。

 「これは歴史に残るよね」「教科書に載るよね」そんなことを、この10年あまり、何度も経験しました。
 その中でも数本の指に確実に入るだろう大きな災厄のただなかに、私たちはいます。

 これがなにを意味するか。例年と違う社会の中で、一人ひとりの人たちが、いつもと違うストレスの中に確実にあるということです。
 それぞれの人の毎日が変わった。慣れたかもしれないけど、行動が制限される。学校や職場、お友達との関係、家族のこと……。
 それらの影響は、人それぞれです。私の耳にも、特に若い世代の「しんどい」という悲鳴がよく聞こえてきます。

死にたいにブレーキをかけるようなメッセージは送りたくない

 コロナ禍があろうとなりろうと、或いはコロナ禍もあって、「死にたい」と思う人も多くいると思いますし、その実行を真剣に考えて考え抜く人も少なくありません。

#8月31日の夜に は、夏休みを終え新学期を迎えるこの時期に若い世代の自殺が増えることから、ある種の呼びかけを行う、数年前から続くキャンペーンです。そしてしの呼びかけの内容は様々です。

 曰く、死なないで、曰く、頑張って、曰く、相談して、曰く、ひとりじゃないよ、曰く、逃げていいよ……

 これらの言葉、あなたにはどう響きますか。いまを生きることができる人と、そこに絶望や虚無を感じる人では全く違うのではないでしょうか。

 私は死にたいと思い願い実行を真剣に考え生きてきた一人です。小五で思い悩み、実行を考え、確実な死の方法を選び、いついつなら都合がいいので実行しようと何度も考え計画しました。けれど何故か失敗するので、開き直り、死にたさを抱えながら長く生き続けました。

 この間、例えば、生きることと死ぬことを天秤にかけたり、生きる上で抱える辛さがどうにもできなくて、身体的にも精神的にも、もがき苦しむことがたくさんたくさんありました。

 ある時、死ねないな生きるしかないなと思うような出来事があって人生が変わりましたが、生きる辛さは相当なものですし、いまこうしたら死ねるだろうなと思ったり、ふっと死にたい気持ちになったりすることは多々ありました。正直なところを言えば、今でもそういう瞬間はよくあります。

 その立場から考えると、上記のような呼びかけが、意味を成すか、とても微妙に思えるのです。だって、生きる辛さ、生に対する疑問が少しもやわらぐことがないのに、一方的に呼びかけるだけなのですもの。ずるいです。

 今の立場の私には、一方的とは限らないことも、常日頃から、その人が辛くなく生きていけるよう、また、生に対する疑問に対して応えようとしている人たちがたくさんいることも、その理由が様々にあることも、分かっていますし、生きる辛さ、生に対する疑問がどんなところからやってくるか、その多様さもわかるようになってきました。

 それでも、安易な呼びかけには同調できません。
 だってそうでしょ、言葉が届かないほど辛い海の底、温度のない海の底を落下していっているのに、言葉や手が届くはずがありません

死にたいにアクセルをかけたいわけでもない

 でも、死にたい気持ちを加速させたい訳ではありません。そうじゃない。かつて辛かった私が、今でも先が見えず辛い私が、ほかの人の辛さを加速してどうする。それもまた真なのです。

 例えば、私は自殺を止めはしません。自殺も、自傷行為も止めはしません。本人に色んな不利益があるのでODは止めますが、それだって強くは止めません。止める権利もなければ、止められるほど、代わりになにかをできるわけでもないし、説得力のあることができるわけでもないからです。

 代わりに、自殺を試みたその瞬間、関係機関(警察や消防など)に連絡して、助けてもらうことに決めています。理由はいくつかありますが、一番大きいのが、自殺未遂になったとき後遺症などができるだけないよう、苦痛のままのたうちまわることのないようにするためです。ほかにはもし亡くなっていた場合でも、それが長く放置されて欲しくないという願いもあります。

 生きてほしいとかそういうことよりもっと前の、「それ以上苦しんでほしくない」、そんなエゴな気持ちからの救急要請です。

 でも、自殺未遂に終わって戻ってきても、彼らの辛さは楽になるわけじゃありません。できる範囲でやりとりをして同じ時を過ごしたりするようにはしていますが、それで少しでも気が紛れたり楽になったり、辛さが減っていくきっかけづくりやお手伝いになればよいのですが、そんなに簡単に話が進むものではありません。

「"いま"をちょっとだけ良くする」を繰り返す、たまにがんばる

 そういう辛さに対してどうしたらいいのか。noteで何度か書いてるかな、書いてないかな、そもそもほとんど書いてないけど、"いま"をほんとちょっと良好にする、楽にするのが一番のおすすめです。

 精神的なしんどさも、身体の状態を少し楽にするだけでも、実は結構変わります。
 身体は緊張していませんか。もうちょっと楽な姿勢はないですか。
 ごはんは食べましたか。少しでもいいから炭水化物とたんぱく質とりましょう。
 無意識に歯を食いしばってませんか。ちょっと楽にしてみますか。
 気温は大丈夫ですか。もっと快適な気温に設定してみませんか。
 叫びたい気持ちがありますか。それなら叫んでみませんか。

 なんでもよいのです。今ある状態を何か少しでも快適にできるならなんでもよいのです。
 自分を少しだけ甘やかすのです。あなたにはその資格があります。なぜなら辛いのですから。ちょっとだけなら我慢する必要はまったくないはず。

 見方を変えると、辛いことに焦点を当てるのでなく、楽にすることに焦点を当てます。辛いことを楽にするのではなく、辛いけれどその一方で、少し楽にできる部分を楽にするのです。

 それを繰り返し、今をやり過ごす。そうして、時を待つのです。辛さを減らすための準備をするのです。

周りの人やいろんな仕組みを利用しよう

 辛さの背景には、大きくてどうしようもないことが確固と存在していて、どうにもできないことも多いです。けれど、全く何もできないということは決してありません。

 「やりすごす」時間は、何かできないか探す時間でもありますし、できることやれることへたどり着くための時間でもあります。ポイントは、自分自身だけで抱え込むのは難しい誰かを頼ろう、うまくいってもうまくいかなくてもなんどでも色んな方法で色んな人を頼ってみよう、です。だからこその「やりすごす」時間なのです。辛さを少しずつ解決するために、自分を少し楽にしつつ、やりすごすのです。

 先に書いたように、実はいろんな人が、たくさんの人の辛さ、色んな辛さを、減らしていけるように、尽力しています。
 それは、やはり、自分自身が辛かったからとか、周りに辛い人がいたからとか、色んな理由があって、みなさんそうしていらっしゃるのですが、ともかく、そうした人たちの力や気持ち、そうしてできた色んな制度や仕組みを利用しましょう。

 利用できる人・もの・制度・仕組みはどこにどう存在するかわかりません。意外とみんな知らないのです。縁(えん)の繋がりが大事になることもあります。あなたにはそのような縁がないように思えても、少しずつ穏やかに状況を変えて行ったりする中で必ず見つかります。

 時を待たねばならぬ場合もあります。それでも永遠では決してありません。少しずつ自分を楽にして、辛さをやりすごしていれば、辛さを楽にする機会が必ず訪れます。

 大きくすぐに解決することはないと思うでしょうし、それはその通りだと思います。でも少しずつ辛さを楽にしたり状況を変えていくことで、そのような挑戦を繰り返すことで、必ず大きく変わっていきます。

 私自身、色んな人の、そのような小さなことひとつひとつを少しでも支えられたら、また、辛さを楽にしたり状況を変えるお手伝いができたら、と思っています。

皆さまのお心は私の気力になります。