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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 ~予習~ & 中瀬智哉さん公演情報

2022.12.23

こんにちは。

来年はラフマニノフ・イヤー!
各オケから続々とラフマニノフの公演が発表されています。

中瀬智哉くんのコンチェルトも4会場5公演に。


では早速、ピアノ協奏曲第2番、通称「ラフ2」の予習を。
ここで取り上げなくてもいい位に有名な曲ではありますが、私のようなクラシック初心者もいらっしゃるかもしれませんので💦




セルゲイ・ラフマニノフ作曲
ピアノ協奏曲第2番


《背景》

ラフマニノフ(1873-1943)
の1901年、28歳の時の作品。

ラフマニノフが生涯で書いたピアノ協奏曲は4曲。その中でも最も有名で演奏される機会の多い作品。

ピアノ協奏曲だけでなく、ラフマニノフが遺した全作品の中でも代表曲と言って良い作品です。

1895年、22歳のラフマニノフは交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年に初演の機会を得ます。
しかし、残念ながらこの初演は大失敗。批評家たちからもさんざんに酷評されることに。
この失敗以後、完全に自信を喪失したラフマニノフは鬱(うつ)に悩まされるようになり、作曲にも手が付かないように。

1899年、イギリスにわたりピアノ協奏曲の作曲依頼を受けたラフマニノフは、翌1900年に周囲のすすめもあり、精神科医のニコライ・ダーリの治療を受けながら作曲の筆を進めます。

治療の甲斐があったのか、快方に向かったラフマニノフ。
この年の内に第2、第3楽章を完成させ披露、翌1901年には全曲を完成させます。
従兄のアレクサンドル・シロティ指揮、ラフマニノフ自身のピアノ独奏によって行われた同年暮れの全曲初演は大成功。ラフマニノフは作曲家としての名声を確立しました。

この作品はラフマニノフの治療に当たったニコライ・ダーリに感謝の意を込めて献呈されています。

優れたピアニストでもあったラフマニノフ。後に祖国ロシアを離れ、1918年にはアメリカに渡り、以後は作曲家としてよりもコンサート・ピアニストとして活躍します。


《曲について》

ロシアの広大な大地を思い出させる重厚な第1楽章と壮大な第3楽章と、甘く切ない第2楽章が特徴的。
華やか、かつ美しい旋律で、クラシック初心者から愛好家まで万人に愛されています。

このピアノ協奏曲には、こんな伝説も。

ラフマニノフと同時代の音楽家レオニード・サバネーエフによると、ピアノ協奏曲第2番第2楽章のメロディー部分の一部は、ラフマニノフの友人であったニキータ・モロゾフが作ったものだそう。

ある日、そのメロディーを聴いたラフマニノフは「これは、私が作曲するべき音楽だ」とつぶやき、モロゾフも是非そうすべきだと勧めたとか。

第1楽章
印象深い冒頭のピアノ独奏による和音連打のクレシェンド。これはロシア正教の鐘の音を模したもの。

第2楽章
重厚的な第1楽章とは対照的に、第2楽章では甘く切ないメランコリックな世界が。フルートとクラリネットがピアノソロと穏やかに調和。幻想の泉の奥底へと静かに引きまれていきます。

第3楽章 
第3楽章では壮大なロシア的叙情の世界が繰り広げられます。
フィナーレへ向けてダイナミックで力強い終結部、いわゆる「ラフマニノフ終止」。華々しくピリオド。


この曲は極めて技巧的な箇所が多く、ピアニストとしても一流であったラフマニノフの技巧に匹敵するテクニックが要求される、ピアノ曲の中でも屈指の難曲なのです。

ラフマニノフがどれだけ凄かったかというと、1891年にモスクワ音楽院ピアノ科を卒業した時は、同級生である、あのスクリャービンを抑え首席卒業。
この難曲を弾きこなせるピアニストは少ないと言われています。

多くのピアニストが弾いていますが、ポイントは「弾きこなす」という点。
来年はどんな演奏が聴けるでしょうか。



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さて、公演情報です

2023年5月21日(日)14時開演

中瀬智哉 ピアノリサイタル
@北國新聞赤羽ホール(石川)




柏崎に続くリサイタルです。
金沢、赤羽ホール、デビューです❗

チケットの一般発売は2023年1月18日10時から。
プログラムはまだ発表されていません。
楽しみですね🎶

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