お互いを満たし合う、互恵ともいえる対話
名古屋へ。で、明日は奈良へ。
わたしは地理にうとくって、名古屋や京都、大阪や奈良って「西だから」っていう理由で勝手にまあまあ近いんだろな!とタカをくくっていたところ、まあまあ遠かった。
なぜ名古屋そして奈良へとなぞのはしごをしているかというと、旅友(タビトモ)のりかさんが「名古屋で所用があって、マリオットに泊まろうと思っているんだけど、一緒にどーお? ついでに、奈良のJWマリオットにも泊まりたいんだけど〜」というので、乗った!のだった(あ、クレジットカードを「アメリカン・エキスプレス(AMEX)」にしていると、貯まったポイントでマリオット系列のホテルに宿泊できちゃうので、旅好き・ホテルステイ好きの方たちにはわりと有名なのですた。わたしもAMEXユーザー)。
お仕事でコーチングをしているここ最近、「本当に好きなことを語り合いたい」「深いところに響くコミュニケーションを取りたい」「人といるときに孤独に逃げずに、心を通わせあいたい」という希望や願いを、立て続けに聞いた。
それぞれと話しているうちにわかったことが、いくつかあった。
「日々、どうでもいい(というかむしろ傷つけ合うものや、空虚さを感じるような…..LINEスタンプとかw)コミュニケーションまがいの対応に追われていて、まるで会話や対話をたくさんしているような気になっているけれども、それは、表層の”会話風”のやりとりなだけであって、わたしたちのこころが満たされるような”本物のコミュニケーション”ではない」
「なのに、そのどうでもいい”会話風”で心が疲れ切ってしまって、ああもう人と交わりたくないな、ひとりでいたいな、という”願いの誤作動”のようなものが生まれてしまう」
「だからといって、ひとりでいてもそれは本当の願いではないので、不全感が消えない」
みたいなことが、どうやらそこここで起こっているらしいのだ。
そしてわたしは、そんなひとたちの想いや願いを聞く機会がわりとあって、そしてわたし自身も「本当のコミュニケーションが取りたいな」って思っている。ここ最近は特にそうかな。
それって、なんというか、「ただのおしゃべり」だったりするんだよね。ただのおしゃべりに、雑談に、意味はないじゃん? と思う気持ちもわかる。わたしも世間話をして満たされることなんてないと思う。
けれどもそれは、「仮面の層」でのおしゃべりの場合であって、仮面の層からもっと奥のほうの、深い層にある「役割の層」や「たてまえの層」や「抑圧された怒りや悲しみの層」を通り抜けた、もっともっと深い深いところにある「本質の層」みたいなところに辿り着いたひと同士が織りなす「たわいもない雑談」こそが、ほんとうにお互いを満たし合う、互恵ともいえる対話になっていくのだと思った。
今日から2泊をゆっくりのんびり移動しながらすごすりかさんと、とりとめもないおしゃべりをしながらわたしは、すごく心が満たされる感覚というものを久しぶりに味わっている。
ハチ(旦那さん)とおしゃべりするときも楽しいし、ゆきさんとお仕事の企画をするときも楽しい。けれども、なんていうのかな。そこにはいつでも後に迫った「役割としてのやるべきこと」というものがあって、楽しい時間はいつまでもあるものじゃない、なにしろこのあと子供たちのごはんを作って宿題を見てお風呂も入って明日のお弁当の準備もしなくちゃいけないし、みたいな状況で、なかなかとりとめもなくおしゃべりを深めながら、夜がふけていくというぜいたくが許されない世界にわたしたちは生きている。
『最高の体調』という本を読んでいるのだけど、原始人的ベースの生活こそが心身のパフォーマンスと幸福度を最高に高めるのだ、という主旨のその本には、原始人的ペースがこんな生活だったというふうに書かれていた。
・朝は夜明けとともに目覚め、狩猟採取のためにひたすら自然の中を歩いたり、海や山へ移動したり。それを3〜4時間ほど。
・その日の食糧や必要物を入手した時点で、労働は終了。そののち、家族や親戚や友人を主体とした仲間たちとのコミュニティー内で、子供と遊んだり、仲間と語り合ったりしながら日暮れまで過ごす。
・日暮れとともに就寝。
今、わたしたちがやりすぎていること(仕事・労働)はずいぶん少なくて、今わたしたちがやらなすぎていること(自然の中で数時間過ごす、体をひたすら動かす、親しい人々と語り合う)のための時間がしっかりと確保されている生活。
この生活を送っていた太古の人々は、果たして「本当に好きなことを語り合いたい」「深いところに響くコミュニケーションを取りたい」「人といるときに孤独に逃げずに、心を通わせあいたい」と、願ったりしたのだろうか。
わたしたちが今、親しい友人と語り合いたいと思ったとき、おそらく数週間から数ヶ月前にお互いに日程調整をして、アポを取って、お店の予約をして、そしてその日がきたらきっと2時間とか3時間、わあっと話して、でも明日の仕事もあってなんだかんだいろいろあって、「じゃあまたね!」「うん近いうちにまた会おうね!」とか手を振り合って別れて、そして何ヶ月も会わない日常に戻っていくみたいな、そんなことが起こっているんじゃないかな。
もしくは、親しい友人ですらほんとうに話したいことは言い出せなくって、もっといろいろディテールを話したいことも「要点から話せ」みたいな社会の毒に侵されて、自分らしくない形で要約しちゃったりして、「あれ、そんな話がしたかったんだっけ?」みたいにモヤモヤするくらいだったら、お金払ってプロの聞き手に話そうと思って、カウンセリングやコーチングの予約を取ったりしているんじゃないかな。
わたしも仕事としてそのいったんを担っているから、なんか複雑な心中なんだけど….。
わたしたち、もっと自然の中でいっぱい体を動かして、今よりもずっとずっと足腰も心肺機能も使って使って、そのあとはSNSで「つながってる風」な気分でどんよりするのではなくって、生のリアルな友だちとおしゃべりできるといいですね。なにがすばらしいって、ぜんぶタダですよ(笑)。
そしてしっかり使った体を、早めにゆっくり休ませて、また次の日のお日様とともに「やあ!」と起きて、その日の食糧を探しにゆけるといいですよね(それはムリか)。
明日は奈良。
わたし、小学生のとき奈良に住んでいたんだよね。なつかしの生駒山上遊園地にいってきます!あんにょん!
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