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031.できれば、やさしくて純粋なものを見落とさずに


きのうはTVで音楽番組を4時間も!やっていたので、途中まで観ていたのだけれど、おうちからLIVE配信という形態でアーティストがいろんな歌を歌っていた。

どれもそれぞれ素敵で、スキマスイッチとか、秦基博くんとか、わー!なんていいながら観ていたのだけれど、三浦大知のインパクトに根こそぎ全部ハートを持っていかれて終わった4時間だった。とんでもなく歌唱力があるとかダンスがすばらしいとか、情報として知ってはいたものの、体感としては知らなかったのだな。

歌唱力がある、ということはわたしにとってヴォーカリストの魅力とイコールではなくて、なんなら歌唱力があまりない人が歌う楽曲の方が好きだ。いちばん好きなのは、ジャズサックスプレイヤーの菊地成孔さんの歌声だし(聴いているだけで妊娠するかもと思う)、スカパラの曲もいつもドラムの欣ちゃんが歌うやつがいちばん好きだ。

歌唱力がある人の、あの歌唱力に依存して中身がスカッとしちゃう独特の感じ、残念だなあと思いながら聴くことが多い。

のだけれど、三浦大知くんは素晴らしすぎて、小さな画面ごしで、いかにもおうちの一室の中でマイクもなく歌ってますというだけの中で、画面から彼の身体と音が、こっちまで飛び出してくるようだった。素晴らしい照明も機材もきっとないであろうその限られた、区切られた小さな四角の中で、彼だけが音楽そのものに瞬時になって、時空を超えているのだった。

羽生結弦の前回の四大陸大会の時の、ショートプログラムを観ていたときも、同じような感覚になったのを思い出した。音楽そのもの、踊りそのもの、”それ”になっていく感覚。”それ”になったものに、魅入られて、身体も魂もそっちの次元に持っていかれる感覚。

だれかがユズの演技のことを「神がかっている、とかではなくて、まさに氷上に”神”が現れているのだ」と言っていたが、言い得て妙だよね。三浦大知が、前奏を聴きながらリズムをとって音楽に入っていって、最初の一粒の声の粒子をこの世に発するために、すっと息を吸い込んだその音すら、それはもう”音楽”になっていたし、そのあとで彼が行う手の動き、身体のリズムと揺らぎ、ふっと横をむく動き、広げられた手と突き出された拳の、どれをとっても音楽でないものが一切なかった。

最後ににっこり笑って、手を振りながら消えていったのもすごくよかった。
ユズも、張り詰めた空気の演技が終わったあと、ふっと世界に帰ってきて、にっこり笑う。

すごいものを見せてもらったな、というのが感想。TVはほとんど観ないのだけれど、たまにこういうことがあるからいいな。

歌、音楽、ことば、笑顔。そういうものにいつもなにかをもらってわたしは生きている。ことばも、情報ではなく、人をコントロールするためのツールではなく、”ことばそのもの”であるとき、時空を超えて読み手に響くのだろう。

それさえちゃんと見えてきて、聞こえていて、受け取れていられれば、どんなときでもわたしは大丈夫だし、この世界だろうがどの世界だろうが、不幸になることすらできない。


さっき、なつかしくて思わず古本で買ってしまった詩集が届いて、その帯にこんなことが書かれていた。


私たちが力づけられている”あれらもの”というのは、確かに力づけられるに値するものだと私は思っているので、失望することなくこれからも、この複雑で単純な世の中を冷静に泳いでいきましょう。
できれば、やさしくて純粋なものを見落とさずに。もちろん、悲しくて透明なものから目をそらさずに。


今日はにっこりしましたか?

いま、9歳の息子に「ねえ、にっこりして」とお願いしたら、すごい変顔をされてこっちがにっこりしちゃったよ。



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