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固執するから争う

今日は、教育の世界のことについて。
今日強く感じたことを。

たとえば、自分が「特別活動」という分野が好きで、本を読んだり、勉強会に参加したり、実践もしてきたという自負があったとする。

となりに「体育」という分野が好きな人、いわゆる「体育畑」の人がいたとする。

そんな二人が、なんとなく雑談から最近の教育事情について話している場面を想像してみてください。

A「最近は、人間関係がつくれない子が多いし、自分のことしか考えられない子も多い!もっと特活に力を入れて、どんどん学級会をやろう!」

B「いやいや、もう最近の子どもは体力がなさすぎるんですよ!姿勢もわるいし、体幹がなってないから集中力もないんですよ!体を鍛えて、体力のある子を育てるのが最優先です!」

A「体力も必要だけど、まずは、人と人の関係性をきちんと作れることが必要なんだから、特活にもっと力をいれないと!体育が苦手な子にとっても体育ばっかりじゃつらいじゃないですか?」

B「関係性を作るためにも、まずは自分自身が元気であることが必要なんですよ!A先生は、いつも特活の話ばかり!話が通じないんですよ!」

A「1番必要なことなんですから、当たり前ですよ!!B先生こそ、もっと視野を広げたほうがいいんじゃないんですか!?」


これは、かなり極端ですが‥
自分が大事だとおもう価値にとらわれすぎて、それが何をおいても一番大事だと思い込みすぎると、結局本質を見失ってしまいます。

教育の本質は、人間関係でしょうか?体力のある子でしょうか?

苫野先生の言葉をおかりすれば、
「自由と、自由の相互承認の感度を育むこと」
つまり、すべての子どもが、「生きたいように生きられる」ための力をはぐくむためです。

そこに本質があるとしたら、「特活」も「体育」もそれを実現するための手段の一つでしかありません。
それなのに、一つのことに深く注力してしまうと、それが全てと思い込んで、他を排除してしまうことがあります。


「本質」はそれ以上分けることはできません。
「本質」に迫るためにはいろんなアプローチ(手段)があっていいと思います。でも、それも「本質」に迫るためである。ということはいつも心にとどめておかないと、偏りのある教育観、人間観、社会観を持ってしまいます。

「固執」は、気をつけないといけません。
固まって執着する。この漢字をみるだけで、なんだか危険な感じです。

絶対のやり方、ただ一つの万能なやり方は存在しないのですから。
先生は、何かの教科を教える専門家になる必要はもうないはずです。

「どう子どもをみるか、関わるか」
「どれだけ、あたりまえや普通の枠を外せるか」
「おしつけないか」

教科の教え方を研究することから、「目の前の子ども」をどうみるかについて研究をしていってほしい。

さっきのA先生もB先生も、「目の前の子どもの名前」を主語にして話したら、争いにはならなかったはず。
「○○さん」を想像しながら、実態を共有しながら、体育の視点、特活の視点から、じゃあどう関わったらいいのだろうか。って話せると思う。

「不特定多数の子ども」から「○○さん」を主語にして話し合われる学校現場が増えていきますように。

教育現場では、大きな「こども」という主語の中で一人ひとりが置いてきぼりになっている。本質が置いてきぼりになっている。そんなことにものすごく危機感と違和感を感じる。

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