【小説】8 連なる偶然、繋がる縁
相変わらずこの喫茶店の飲み物は値段に見合った味なのかどうかわからないなあと思いながら、私はオレンジジュースを啜る。隣に座った娘は、席の横に飾ってあったミニカーをくるくる走らせて遊んでいた。勝手に触っていいのかとちょっと心配していたのだけど、アイスコーヒーを運んできた店員さんに聞いたら、ああどうぞ、好きなだけ遊んで構いませんよと言ってくれた。店員さんがアイスコーヒーを置くと、向かいに座った幼馴染はありがとうございます、と几帳面に声に出して、小さく頭を下げる。中学校まで一緒だった私たちは卒業してからもたまに会っていて、その場所は大抵この喫茶店だった。飲み物一杯で五時間居座っても怒られないからというのがその理由だったが。
「地元に帰ってるって聞いてたから大学やめたのかと思ってたんだけど、そうじゃなかったのね」
私がそう言うと、向かいの彼女はストローから口を離して、苦い顔をした。
「まあ、今ちょっと停滞気味だからそれに近いかもしれないんだけどね」
「でも研究してるんでしょ? なんていうんだっけ、修士? はかせ?」
「博士課程にいるの。修士までは順調だったんだけど、修論を書き終えた頃からどうも行き詰まっちゃって。都内での一人暮らしも心もとない気がしてきたから実家に戻ったっていうだけで、ちゃんとここから研究室にも通ってるよ。まあ、一人暮らしをやめたのはお金のこともあるし……」
彼女が大学を卒業した後も大学院に進んで、研究者を目指して頑張っているというのは聞いていたけど、頭のいい彼女のことだからそのままスイスイ研究者になれてしまうものだとばかり思っていた。それで、地元に帰ったと聞いて、私は彼女が大学をやめて何か自分の研究所でも開こうとしているのかと勝手に思い込んでしまったのだけど、そういうわけでもなかったみたいだ。
「大変なの? 研究って」
小学生みたいな質問をしても、たいてい彼女はちゃんと私にもわかるように話してくれる。
「まあ、実験しても思うような結果が出ないとか、データが集まらないとかね、よくあることだよ。でもそれが長引いてくると、そもそも出発点が間違ってるのかもしれないとか、やり方に問題があるのかもしれないとか、いろんな可能性を考えないといけなくてさ、ちょっと疲れちゃうよね」
「好きなことでも上手くいかないとしんどいんだねえ。でもそこで続けて行けるのがさすがだよ、私だったらとっくに諦めてるだろうな」
「ううん、でもそれも善し悪しだよね」
お待たせしました、とデザートが運ばれてくる。私のは苺のパフェで彼女は柑橘のゼリー。
「悪いことなんてあるの?」
「一つのことだけにずっと拘り続けてそればっかり追い続けてて、でも実はどれだけ打ち込んでも結果が出ませんでした、ってことだってあるでしょう」
「そうかなあ」
少なくとも彼女に限ってそんなことはないと私は思うけれど。
「行き詰まった時にきっぱり思い切ってその道を諦めてほかの道を探すほうが正解ってこともあると思うのよ。私はそういう思い切りが悪いから……変化を恐れない人はすごいと思うよ、あんたもそうだけど。同じところに居続けるほうが、ほんとは楽だったりもするでしょう」
そういうふうに言われるのはなんとも複雑な気分だった。私としては、何か考えがあったとか、変化を求めていたなんてつもりは全くなくて、その時その時の気分で興味のあるものとか、なんとなくこっちのほうがいいんじゃないかと思う方を選んできただけだ。夫と別れて、娘と両親と一緒に暮らすことにしたのもそうだった。その選択を一番はっきり肯定してくれたのは、今目の前でアイスコーヒーの氷をカランカラン鳴らしながら飲んでいる彼女なのだけど。
彼女はなぜか無表情を保ったまま娘に話しかけ始めた。
「お嬢さん、いい車をお持ちですねえ。どこかへドライブですか」
気心知れた相手以外に対しては、どういうわけか彼女は敬語で話す。一度理由を聞いたら「適度に距離を開けた方が私は話しやすい」と言われたことがあったけど、よくわからない。
娘は声に出して返事こそしなかったものの、照れ笑いのような表情を浮かべて頷き、手に持ったミニカーを彼女のほうへ走らせ、トントンとドアのところを指差してみせる。
「あら、私も乗せてくださるんですか。どうもありがとう」
えへへ、と笑って楽しそうにしている娘を見て、やっぱり彼女に会わせに連れてきて正解だったなと思う。彼女のコミュニケーションの取り方はその言葉づかいからして独特だけど、それがかえって子どもにはいいのかもしれない。
娘は元々おとなしい性格だったが、少し前から、家の外ではほとんど喋れなくなっていた。場面緘黙症という名前がついているらしい。初めてその診断を受けた時は、こんなに小さな子がこれからどれぐらい長く続くのかもわからない病気と付き合っていかないといけないのかと途方に暮れたけど、最近は、対処しないといけないものが何なのかわかっていて、それが名前のはっきりしたものだというのは、むしろ心強いことだと思うようになってきた。だからといってすぐに治せるものでもないけれど、姿の見えない敵と戦うのより、こちらの気分としてはずっとましだ。
「いい子だねえ、天使かと思うわ」
彼女には一応前もって娘のことを伝えてあったけど、そんなの全く関係ないみたいに接してくれる。こういうところに、私自身もいつも助けられてきた。たまたま小学校から中学校まで一緒だったというだけで、その後の進路もバラバラだったのに、こうして時々連絡を取り合ったり会って話したりということが続いてきたのは、不思議でもあり、ありがたいことでもあった。
「そういえば、今日わざわざこっち来てもらってごめんね。ご両親のとこに住んでるって聞いたからてっきり元の実家に住んでるんだと思ってた」
「あ、いいのいいの。そんなに遠くに引っ越したわけでもないし。実家の建物も古いから移ったっていうだけなんだよね」
「そうなんだねえ。まあ、次に会う時はそっちに近いとこにしようか」
「助かるなあ。また娘ともどもお世話になります」
そう言うと彼女はニヤリと笑って、「こちらこそどうぞよろしくお願いします」と、私よりも娘のほうに向かって言った。
「ね、そんなことよりさ、私聞きたかったんだけど」
今日彼女に会いに来たのは、娘を会わせたかったのももちろんあるけれど、私にはもう一つ目的があった。しばらく前に彼女から聞いた話の続きを聞き出そうと思っていたのだ。
「ちょっと前に、高校時代に好きだった人に再会したって言ってたでしょう。どうなったの? その後」
「そんな話した?」
「してたと思うんだけどな」
「ううん、そもそも好きだった人ってわけじゃないし、再会もしてない。あんた、いつも自分のフィルターで人の話を解釈するんだから……」
「ええっ、でもそんな話じゃなかったっけ。誰かに再会したっていうのは聞いたよ、少なくとも」
彼女はそういう色恋沙汰みたいな話をほとんどしないから、少しでもその気配を感じると私は勢いよく食いついてしまう。なんなら、そういう話どころか、彼女は自分の話をしてくれるということがほとんどないのだ。それで以前は、彼女と仲がいいと思っているのは私の思い込みなんじゃないかとか、彼女は私に気を許していないんじゃないかとか気にしていた時期もあったけど、いつからか、彼女はそもそも自分のことを誰かに話したいと思うことがないんだなと、なんとなくわかってきた。それからは自分の話をしてくれないことについてはあまり気にしなくなったけど、話してくれそうな兆候があるとやっぱり嬉しいし、聞きたいと思ってしまう。
「ああ、再会というか……高校時代に会った人に、ちょっと似てる女の子に会ったっていう話かなあ」
「女の子?」
「雰囲気というかね、そういうところが」
「ふうん……?」
彼女はあまり自分のことを話さないけれど、だからといってごまかすために嘘をつくような人ではないから、本当にそういう子に会ったんだろう。けどそれにしても、「高校時代に会った人」に「ちょっと似てる」子に会ったというだけのことを、わざわざ人にするだろうか。好きな人だったかどうかはともかく、何か彼女にとって特別思い入れのある人なんだろうと私は考えた。
「どんな子だったの?」
「ううん、そうだなあ、写真を撮ってた」
「写真?」
「まだ高校生だって言ってたけど、コンクールに応募するんだって、花の写真を撮ろうとして植物園に来てたの」
「へえ、すごいね。じゃあ写真家を目指してる子なんだ」
「たぶんね」
「話したわけじゃないの?」
「話したよ。でも本当に写真家を目指してるのかどうかまでは聞かなかったから……でも、いい写真を撮りたいんだろうなっていうのはわかった」
「それで、その子が誰のどういうところに似てたの?」
そこが核心だと思うのだけれど、彼女はううんと唸って言葉を濁した。
「……高校の時に会った人の話って、したことあったっけ?」
「どうだったかなあ。覚えてないってことは、たぶん詳しくは聞いてないはずだけど。だからなんとなく私の記憶の中では、高校時代にあんたが好きだった人の話ってことになってるのかも」
「ううん、じゃあ簡単に言うとね、近くの高校の人だったみたいなんだけど、たまたま図書館で会って何度か話して、なんていうか、その人と話したおかげで私は本当に研究者目指そうって思うようになったの」
「励ましてくれたりしたの?」
「まあ、そんなところかなあ。植物の研究がしたいっていう話をした時にね、やりたいことがあるのは素敵だって言ってもらったりとか――その人自身もやりたいことに打ち込んでる感じがして、説得力があったのよね」
「本が好きな人だったんだっけ? ちょっとだけ思い出してきた」
「なんだ、話したことあったんじゃないの……まあいいか」
彼女のグラスの氷が溶けてころりと音を立てた。いつの間にか娘がミニカーを動かす手をとめて、そのグラスを見つめている。私たちの話を聞いているのかどうかはわからない。
「その頃は私もあんまり他の人に自分の将来の夢みたいな話はしたことなかったし、周りにもあんまり、研究者とか科学者になりたいっていう子はいなかったから、本当にその道を目指していいのか迷ってたんだけど……不思議なものでね、誰かの一言がすごく決定的に響いちゃうことっていうのが、あるものなんですよ、世の中には。わかるかなあ」
彼女はなぜか途中から娘に向かって話していた。妙にシリアスな喋り方が面白かったのか、娘はくつくつと笑った。それを見て彼女も満足そうに笑いながらゼリーを口に運ぶ。
「……その人があんたにとって特別な人なのはわかるわ、具体的にどういう人なのか全然見えてこないけど」
「具体的なところはあんまり問題じゃないのよ」
彼女のこういうところはやっぱり何年付き合ってもわからないなと思う。
「それで、さっき言ってた写真家の女の子が、その人に似てるの?」
「まあ、そういう感じかなあ。やっぱり、好きなものに対する姿勢とか一生懸命さとか、佇まいとかね。で、その高校時代に会った人を思い出して、ちょっと懐かしくなっちゃったの。それだけ」
「それだけ? 本当に?」
「それだけよ」
なんだか、これがドラマなら何か展開がありそうなのになと思った。現実はそんなものなのかもしれないけど。
そんなことを考えて不満げな顔をしていたら、彼女がぽつりと呟いた。
「……偶然というか、奇跡だったのかも」
「え?」
さっきの話、そんなに言うほどの内容だっただろうか。それともまだ何か続きが、と思って尋ねるのよりも早く、彼女は苦笑いしながら口を開いた。
「たぶんね、たぶんだけど……妹さんだと思うんだ。昔会った人の」
ええっ、と思わず大声を上げそうになって、慌てて口を塞いだ。
「そんな偶然ってある?」
「だから私もびっくりしたんだよ。本当に……お兄さんから聞いた妹さんの話と、妹さんから聞いたお兄さんの話がぴったり合ってたから、たぶんそうなんだと思う」
「じゃあ、その妹さんに言ったら、お兄さんにも再会できるんじゃないの?」
「そうだったのかもしれないけど、そこまで踏み込むことはないかなと思って……」
私はやっぱり腑に落ちなかった。彼女の話しぶりを見ていると、好きな人だったかどうかというのが問題にならないぐらい、彼女にとってそのお兄さんとの出会いというのは重要なできごとだったんだろうという気がする。彼女の場合、さっきみたいに無意識にこぼれてしまったような言葉のほうが本音だということがよくあった。「奇跡」なんてちょっと大袈裟にも聞こえる表現をするのは、たぶん、よほどのことだ。
「……でも、妹さんの名前もわからないからなあ」
「ええっ、せっかくお兄さんのほうまで繋がりそうだったのに」
「私はそこまでして人と縁を繋ごうとするタイプじゃないもの……でも、妹さんの名前ぐらい聞いておいてもよかったかなあ。将来あの子が本当に写真家になった時にわかるじゃない?」
「そうねえ……そしたら例えば、ああいう雑誌に写真が載ってたりもするわけでしょう」
私は喫茶店の隅の本棚に並んでいる雑誌に目をやった。
「ああ、そうかもね」
彼女はふわりと立ち上がって、写真雑誌を何冊か手に取って戻ってくる。
「写真の賞に応募するって言ってたなあ、そういえば。どうだったのかしら」
独り言のようにそう話しながら、彼女はぱらぱらとページをめくっていたけれど、ふとその手が止まった。その視線が一点に注がれている。
どうしたの、と聞こうとしたら、彼女は複雑な表情を浮かべた。
「……奇跡って、一つだけじゃなくていくつも連なってるものなのかな」
私はびっくりして、彼女の開いているページを覗き込む。その出版社が主催しているらしい写真の賞の受賞作が紹介されているところで、彼女が指さした写真には「奨励賞」と書かれていた。どこかの街角に咲いた濃い黄色の花の写真だった。
「ヤエヤマブキの花なんだけどね。私、植物園で彼女がヤエヤマブキを撮るのを見てたの」
「え、これがその写真?」
「そのものではないの。植物園のヤエヤマブキではないから。でも、なんだろうな、なんとなくだけど、そうだと思うの」
彼女は困ったような、ちょっと泣きそうにも見えるような笑顔でヤエヤマブキを見つめていた。雨上がりに撮られたものだろうか、花びらの上の水滴が太陽の光できらきらしていて、花はなんだか凛として見える。でも後ろの街並から浮いているわけでもなく、画面全体に柔らかい空気が流れているみたいだった。なんとなく、彼女の話から想像するその女の子は、こういう写真を撮るかもしれないなと、私も思った。
「これ、きれいな写真ね」
そう言ったのは、驚いたことに娘だった。家族以外の人の前でちゃんと喋ったのなんて、随分久しぶりのことだ。
「ねえ、きれいでしょう」
「きれい。わたし、この写真とっても好き」
「そうねえ。私も好きですよ、この写真」
彼女はそう言って娘に微笑みかける。
「どんなところがいいなと思いましたか?」
ええっとねえ、と娘は考える。彼女と私はゆっくり待ってみる。
「……お花が黄色くて、とっても、明るい感じがする。あと、なんだか、この場所が好き」
「この場所?」
「そう。とってもあったかくていいにおいがしそう」
「そうかあ」
私たちは顔を見合わせて笑った。それと同時に私は彼女に感謝した。なかなか喋ってくれない娘の中では、こんなにしっかりした言葉が育っていたんだというのを教えてくれたのだから。
彼女はしばらく写真を見つめていたが、また独り言のように「やっぱり、言いたいことは言ったほうがいいんだろうなあ」と呟いた。
「これ、だいぶ前の雑誌だよね……?」
彼女がそう聞くので表紙を見てみると、一年近く前のものだ。
「こんなに前に掲載した写真の感想、今さら送るのも変かな?」
私はかぶりをふった。娘も真似をしてなのか首を横に振る。彼女は娘の反応に気づいて、「どう思われます? お嬢さん」と笑いをこらえながら聞く。
「言いたいことは、言ったほうがいい」
彼女のさっきの呟きを真似て、娘はきっぱり答えた。彼女はやられたというような顔をして笑う。
「そうねえ。言いたいことを言えるチャンスがあるんだものね。無理に繋ごうとしたわけじゃなくても繋がった縁なら、やってみようかなあ」
今度は少し難しかったのか、きょとんとした顔をする娘を見て私たちは笑った。やっぱり今日ここに、娘を連れて彼女に会いに来てよかったと、私はもう一度確信した。
書くことを続けるために使わせていただきます。