【小説】6 蝉時雨とハーモニカ

 夏休みだからといって都内に遊びに行きたがる奴らに付き合って来てみたはいいが、たいして見るべきところがあるわけでもないし、その上今日に限ってとにかく暑くて、果ては頭がガンガンしてくるので、僕は途中で離脱して適当に住宅地をぶらぶら歩いていた。
 よく知らない高そうな店が並ぶ大通りだとか、やたらと人の多い繫華街みたいなところよりも、僕はどこにでもありそうな街中のほうがしっくりくる。何時間でも歩いていられる。人の暮らしの気配みたいなものが好きなんだろうな。
 玄関先に並べられた鉢植えの、ちゃんと手入れされてそうなのとか、逆に伸びたい放題になっているヘチマとか。陶器の小人たちがそういう鉢植えの脇に並んでいるのとか、子どもが遊んだ後みたいな小さなバケツとシャベルが置きっぱなしになっているのとか。田舎のばあちゃんの家で嗅いだのと同じような、お線香みたいな匂いとか、煮物でも作っていそうな出汁の匂いとか。洗濯機が回る音、掃除機をかけている音、誰かがピアノを練習している音。しゃれた色合いの壁の新しい家、同じような見た目の建物が並ぶ公団、ちょっと建付けが心配になるような古い一軒家。そういうのをいちいち見ながら、あっちの路地に入ったり、こっちの公園の中を抜けたりして、知らない街も知っている街も、探検するように練り歩くのが好きなんだ。ここにはどんな人が住んでいそうか想像したり、もしかしたらこの路地の先はこことは違う世界に通じているのかもなんて考えてみたりもする。小さい頃から、どこへ行ってもこんなふうに街を見てきた。時には自転車でいつもより遠くまで行ったりもした。今でも飽きることはない。
 ふと思いついて、僕は電車でもっと郊外のほうへ行ってみることにした。同じ都内でも、ちょっと場所を変えたらまた違う様子が見られるかもしれない。
 電車を何度か乗り継いでいくと、車窓の様子がだんだんと変化していく。大きなビルは減って、住宅街だとか田圃だとか、こうなるとうちの近所とさほど違わないなと思うような風景が広がってきたところで、僕は電車を降りた。

 平日の昼間だからか、この炎天下ではみんな外に出たがらないのか、そもそも人が少ない街なのかはわからないが、改札を出て見渡した通りに人影はまばらだ。通りの反対側にアーケードの入り口が見える。商店街のようだ。少し覗いてみようと通りを横切って行っても、ここにもあまり人はいなかった。近くの家の人なんか買い物に来たりしないのかな。夕方ぐらいになれば増えるんだろうか。この近くの学校の制服らしいのが洋品店の前に飾られているのだとか、籠に盛られたトマトだとか、ショーケースの中に並んでいるコロッケだとかを見ながら僕は歩いて行ったけど、お客さんが少ないからか、なんだかあまりこの街の人たちの暮らしというのを思い浮かべることができなくて少し残念に思った。あるいは僕が暑さでバテていて、そういう想像をするだけの元気がなかったのかもしれないけど。
 僕は駅のほうへ向き直ったが、その時ふと、駄菓子屋のような雑貨屋のような店がちらりと見えて、どういうわけか気になった。覗いてみると、奥におじいさんが一人ぽつねんと座って新聞を読んでいる。僕に気づくと「いらっしゃい」とあまり歓迎する気のなさそうな声で言う。店の中を見回すと、ヨーヨーとか人形なんかのちょっとしたおもちゃも置いている駄菓子屋といった風情だけど、面白いのは、その中になぜかオカリナだとかハーモニカだとか、おもちゃのピアノまで置いてあるところだった。
「こんにちは。これ面白いですね。ここは楽器屋さんですか」
 ちょっと冗談めかしてそう言ってみたけどおじいさんは特に笑いもしない。
「音が出るもんがあったら、子どもらが楽しいかと思って置いてるだけだよ……」
 無愛想だけど悪い人ではないみたいだった。おじいさんが座っているところの脇には、雑誌とレコードが並んだ棚まで置かれている。何でもありの店らしい。
「触っても……?」
 そう声をかけながら僕はもうおもちゃのピアノの鍵盤に手を伸ばしていた。おじいさんは「好きにどうぞ」と言ってまた新聞に目を落とす。僕はそのピアノで、右手だけでポロンポロンと音を鳴らしてみた。昔、ピアノを習っていた姉が弾いていたのを隣で聞いていて、妙に気に入っていた曲だ。なぜか今でもメロディは覚えているけど、曲名はずっと知らないままだ。気づいたらおじいさんがまた顔をあげてこちらを見ていた。僕と目が合うと、ふうん、と鼻から息を吐いた。
「これ売り物ですか」
 別に買いたいとまでは思っていなかったけど、僕はなんとなく聞いてみた。
「それは売れないなあ……娘が昔使ってたもんでね、おもちゃとはいえ意外とちゃんとしたもんなんだよ」
 確かに、言われてみると綺麗な音がするピアノだった。特に買うつもりがあったわけでもなくて、ただなんとなく聞いただけだったのに、なぜかおじいさんの返事を聞いて僕はちょっと気落ちした。それを知ってか知らずか、おじいさんは続けて言った。
「そのへんのハーモニカとかオカリナは売ってるよ。好きなもんがあったら持っていきな」
 僕は黄色い小さなハーモニカ――値段を見たらそれが一番安かった――を買って店を出た。これもおもちゃの安っぽいハーモニカだったけど、駅までの道を歩くうちに、これを買えたというだけでここに来た価値があったような気分になった。

 駅に戻ると、今度は駅舎のすぐ脇に見えた踏切を渡って、その先の住宅地らしいほうへ歩を進めた。
住宅地、と思ったけれど家が集まって建っているのは駅の周りだけで、少し行くと田圃や畑の方が視界のほとんどを占めるようになってきた。へえ、この辺りまで来ると意外と田舎なんだなと思いながら、僕はじりじりと夏の陽が照り付ける道を歩く。田畑ばかりだから日光を遮るものがないんだと今さら気づく。その割には蝉の声が聞こえてきたりもする。どこで鳴いているんだろう。田圃の向こうに見える雑木林みたいなところだろうか。だとしたらなかなかの大音量だ。
 ただでさえ暑いところに蝉時雨。俳句だか川柳だかよくわからないものが思い浮かんだ。しかしそれにしても、蝉の声を聞くと夏らしい気分が盛り立てられるせいか、なおのこと暑く感じるからおもしろい。実のところは、おもしろいなんて言っていられないぐらいには、僕はこの暑さでクラクラし始めていたのだけど。
 さすがに日陰に入った方がいいだろうと思って、僕はさっき見た雑木林のほうに向かった。遠そうに感じたけど畦道をまっすぐ行ったら案外近い。そして、近づくにつれてやっぱり蝉の声もどんどん大きくなって、解像度が上がっていく。一本の太い音だったのが、ちょっとずつ違う鳴き声の束だったのを耳で聞いて実感する。一つ一つの声が主張してくる。
 蝉の声のせいでいっそう暑さを感じるのかと思っていたけど、むしろこの騒々しさが夏の暑さを作り出しているのかもしれないと僕は考える。そんなわけはないんだけど。

 樹々の作る日陰でちょっと頭を冷やしてから反対側に抜けたら、小さな神社と、その向こうにこれまた小さな公園がある。ちょうど大きな樹の陰にベンチがあったので、僕はそこに腰かけて、ふとさっき買ったハーモニカのことを思い出してポケットから取り出してみた。片方の掌に収まるぐらいの、ほんとにおもちゃみたいな、ちゃんと音が鳴るのかどうか疑いたくなるような代物だ。
 ベンチに腰かけたまま、試しにそれを唇に当てて息を吸ってみると、なるほどハーモニカらしい音が鳴った。小さい割にはしっかりした響きだ。
 ハーモニカなんてもう随分長いこと触ってもいなかった。小学校で習ったけどもうすっかり忘れている。それでも、音程を探りながら息を吸ったり吐いたりしているうちに、なんとなくメロディらしいものを吹けるようになってきた。
 おおよそ僕は楽器というものに関しては器用なほうだと思う。姉が習っていたピアノも、近くで聞いて時々真似して弾いているうちに、ひょっとすると姉よりも上手いんじゃないかと思うぐらいには弾けるようになってしまった。でもその姉が音大の受験に失敗して、ピアニストになるのを諦めてからというもの、僕も滅多に弾かなくなった。間の悪いことに、試験を終えて意気消沈した姉が帰ってきたその時、僕は玄関から居間に向かう途中にあった部屋で、彼女がその日弾いてきたはずの課題曲を弾いていたんだ。僕には何の意図もなくて、ただその曲が綺麗だから弾いてみようと思って弾いていただけなんだけど、姉は僕が彼女を馬鹿にしていると感じたかもしれない。それは姉の逆鱗に触れもしたし、同じぐらい彼女を悲しませもしただろうと思う。その時、僕と姉との間でどんなやり取りがあったかは忘れてしまったけど、あんな風に、誰かの眼の奥で黒い炎が音もなく渦巻いているようなのを見たのは、後にも先にもあれきりだ。僕は、姉が進めなかった道へ進むべきではないと、その瞬間に確信した。
 そういえば最近も似たようなことがあったな。僕は曲ともつかないメロディを吹き続けながら、不意に思い出してしまった。
 ギターを買って練習しているんだという奴の家に遊びに行って、やっとコードだとかアルペジオの弾き方だとか覚えてきたんだよなんて言いながらそいつがアコースティックギターをぽろぽろ鳴らしているのを、へえと思って見ていたら、触りたかったら触ってみてもいいぜと言うので試しに弾いてみたんだ。ギターなんて持つのも初めてだったけど、なんとなく見よう見まねで弦を押さえてベンベンはじいてみたりしているうちに、どこを押さえたらどういう音が出るのかわかってきて、それで、要はすぐにそのギターの持ち主よりも上手く弾けるようになってしまったのだ。自画自賛の余地もないぐらい全く客観的かつ公平に見て、僕のほうがよく弾けていた。
「なるほどなあ、面白いな、これ」
 僕が今思い出してしまったのは、うっかりそんなふうに無邪気な調子で僕が話しかけた時の、彼の眼付だ。姉の時に比べたら全然たいしたものではなかったけど、なんだかこちらが悲しくなるような眼をして、「お前、すげえなあ」と弱々しい声で言った。あ、またやってしまったなと僕はそこでようやく気付いた。
 本気で熱心に音楽をやっているわけでもないのに、なまじ器用で覚えが早い――自分で言うのも気が引けるけど――から、ともすれば「こいつは音楽の才能に恵まれてる」「全然努力もなしで弾けるなんて羨ましい」「後から始めたくせに」「私の苦労も知らないで」とか思わせてしまうのかもしれない。でも、僕が実際に姉やそのギターの奴に勝てるのは、ほんとに入り口の、取っ掛かりのところにいる間だけなんだ。僕には本物の才能があるわけじゃないし、僕の演奏は人を喜ばせるっていうことがない。
 もう少し思慮深く行動しないと、またそうやって軽はずみに誰かの心をくじいてしまったり、その人が誇っていたものや大事にしていた場所をめちゃくちゃにしたりしてしまうかもしれないな、と常々思ってはいるんだ。思慮深く、というのもなかなか難しいけど。
 まあここなら誰も聞いてないし、と気を取り直して僕は思いつくままに知っている曲を吹いてみる。小さいハーモニカだから音域も狭いけど、案外いろんな曲が吹けるものだ。僕はしばらく蝉との共演を楽しんだ。

「ね、あなた何でも吹けるの?」
 あまりに突然話しかけられたものだから、僕は驚いてハーモニカを取り落としそうになった。いつの間にか小さな女の子が横に立っている。
「何でも吹ける? 私、聞きたい曲があるの」
 彼女は重ねて尋ねた。なんというか、ませた話し方をする子だ。
「何でもってことはないなあ。知ってる曲ならもしかしたら吹けるかもしれないけど、練習が必要だね。何が聞きたいの?」
 彼女が挙げたのは映画の題名だった。その主題歌だか劇中歌だかを聞きたいということらしかったが、残念ながら僕はそれを観たことがなかった。
 ごめんよ、僕はその曲知らないんだと答えると彼女は不服そうに口を尖らせた。なんだかやっぱり僕の器用さの程度は帯に短し襷に長しというか、あるいは宝の持ち腐れというか、せっかく僕の演奏で人を喜ばせることができるチャンスだったかもしれないのに、そんな時に限って期待に応えられない。つくづく僕は中途半端だ。
 そう考えていたら、彼女は思いがけないことを言い出した。
「じゃあ、それ私に貸してくれない?」
「おや、ハーモニカ吹けるの?」
「わかんないけど。できるかもしれないから」
 なんだかおもしろい子だなと思って、僕は彼女にハーモニカを手渡した。
「息を吸って音を出すんでしょ」
「ああ、よく知ってるね。ハーモニカは息を吐くだけじゃなくて、吸う時にも音が出るんだよ」
「お兄ちゃんが教えてくれた」
「じゃあ吹き方はわかるんだね?」
「たぶん。やってみる」
 それから僕は彼女の練習を見守る役に徹した。彼女は熱心に、「ああ、ちがった」「ちがうなあ」「あ! 今のはよかった」と言いながらこの小さな楽器と格闘している。彼女が吹きたい曲を僕は知らないので、息の仕方とかだいたいの音程とか、そういうところだけ、彼女が困っていそうなら教えた。しばらくすると、なんとなくメロディらしきものが聞こえるようになってきた。僕には音が合っているのか外れているのかもわからないけど、それは何か遠い国の音楽のような、でもどこか懐かしいような、そんな曲に聞こえた。

 あれほどじりじりと照り付けていた陽射しが心なしか弱まったかと思って見上げたら、いつの間にかだいぶ日が傾いてきている。長いこと吹き続けてちょっと疲れてきたのか、彼女はハーモニカを口から話して大きく息をついた。ハーモニカの音が止んだら、蝉の声も心なしかボリュームを落としたような気がした。
「君は何年生?」
 彼女がハーモニカを持った手を突き出してきたので、受け取りながら僕は尋ねた。
「一年生だよ」
「一人でここで遊んでいたの?」
 そう聞くと彼女は、ちょっと迷ったような顔をしてから、かぶりをふった。
「かんごしさんと一緒に散歩してたんだけど」
「看護師さん?」
「そこの病院の」
 彼女が指さした方を見ると、ぽつぽつと家が並んでいる向こうに大きいビルが見えた。あれが恐らく病院だろう。改めて彼女の格好を見てみると、病院の入院患者さんが着ている服のようにも見えた。
「入院してるの?」
 彼女は小さくうなずく。
「元気なのよ。調べるだけだって」
 検査入院ということだろうか。しかし、こんなに小さいのに入院なんて退屈だろうな。
「看護師さんは?」
「はぐれちゃった」
 僕はちょっと心配になった。今頃騒ぎになってやしないだろうか。あるいはその看護師さんは血相変えて彼女を探し回っているかもしれない。こんなところで呑気にハーモニカを吹かせている場合ではなかった。
「戻らなくて大丈夫なの? 一緒に病院まで行ってあげようか」
 彼女は、今度は首を大きく左右に振った。
「まだ大丈夫」
 ああ、やっぱり戻りたくないんだろうなと僕は察する。
「病院の人たちは心配してないかな?」
「しないよ。もう、慣れてるもん」
「あ、さてはいつもそうやって脱走してるんだな?」
 彼女はいたずらを見破られたようにちょっと斜め上を見て、それから言った。
「だって、私、元気だから……」
「あ、こんなところにいた! 駄目でしょう、勝手に遠くまで行ったら」
 声のする方を見ると、女の人が駆け寄ってくるところだった。この子を探しに来たんだろう。女の子はビクッと飛び上がるみたいに驚いて逃げようとしたが、「走っちゃ駄目! 悪くなったらどうするの!」とその看護師さんが言うので、僕は咄嗟に女の子の肩を掴んで止めざるを得なかった。
「悪くなんてならない。私、元気だもん」
「駄目よ。そんなんじゃ治せないよ」
「もう治ってる。手術もしなくていい」
「何言ってるの」
 手術という言葉が聞こえて、僕は少しどきりとした。こんな小さい子でも手術を受けたりするのか。彼女が脱走したくなるのもわかる気がした。
 だけど、彼女がどんな理由で手術することになっているのかはわからないものの、ちゃんと治療を受けて治ってくれるといい、とも思った。というのは、彼女がハーモニカで吹きたい曲を完成させるのにはたぶんしばらく時間がかかりそうで、それでも完成したところを聞いてみたいと、そう思ってしまったから。
 すみませんねと僕に会釈して、ほら帰るよと彼女を連れて行こうとする看護師さんに、僕は「あの、ちょっとだけ待ってください」と声をかけ、それから彼女に歩み寄ってしゃがんだ。
「ね、これをあげよう」
 僕はさっきのハーモニカをもう一度彼女の手に握らせた。彼女はきょとんとした顔で僕を見上げる。
「これ、お兄ちゃんのでしょう」
「そう。だけど君、吹きたい曲があるんだろう」
「でも、できなかったよ」
「練習するんだよ。僕は知らない曲だし吹けないからさ、君が自分で吹いてくれなきゃ」
 ふうん、と不思議そうに首を傾げながら、彼女はハーモニカを見つめている。
「吹き方は君のお兄さんにまた教わったらいいよ」
「あなたは教えてくれないの?」
「僕はもう行かなきゃいけないから――吹けるようになったら聞かせてよ」
 彼女はそれでもしばらく首を傾げたままだったが、突然思い立ったようにうんと頷いてみせた。
「ありがとう。吹けるようになったら、今度は私が教えるから、吹いてね」
 僕はそうだね、と頷いて、これまた不思議そうな顔で僕らのやり取りを見ていた看護師さんに会釈して、来た道を帰り始めた。

 雑木林を抜けて振り返ったら、樹々の隙間から覗く西日がまぶしい。目を細めながらその先を見ていると、蝉時雨に混じってハーモニカのメロディが聞こえた気がした。
 今日ばかりは、中途半端な人間でよかったのかもしれない。

書くことを続けるために使わせていただきます。