【小説】7 撮りたかったもの、出会った人


 風景や建物の写真のほうが好きだけど、コンクールに出す写真の被写体に植物を選んだのは、美術館に行ったついでにその近くの植物園を覗いてみたら思いのほか楽しかったのと、去年までは街の風景を撮って見事落選していたので、ちょっと違う種類の写真に今年は挑戦してみようと思ったからだった。
 植物のことはあまり知らないので、初めのうちは花の名前もわからないし、どの樹もおんなじように見えるというような調子で、「題材は植物」とはぼんやり決めているにせよ、ちゃんとしたものが撮れるか不安にもなった。けれど、夏休みの間たびたび足を運んでいたら、似たような格好の樹々の区別も少しはつくようになってきたし、園内でお気に入りの草花がある場所もいくつかできた。
 生き物を主役に撮ろうとすると、日によって姿形はどんどん変わって行ってしまうし、屋外だから時間帯やその日の天候でも写真のできが左右される。もちろん、街の風景だとか建物だって、見え方は日によって違うし、ビルが取り壊されたり新しく建てられたりで変わっていくのだけど、植物相手だと短期間でもどんどん変わるのがわかる。難しい。ベストショットがわからない。
 そんなわけで、植物園に通う頻度は徐々に増していったのだ。

 その日、いつもの撮影場所の中のひとつをめがけて歩いていくと、そこには先客がいた。
 若い女性で、何かの花の前にしゃがんでルーペで観察している。ここで研究をしている人だろうか。カメラを抱えたまま突っ立って様子を見ていたら、彼女は何かノートを開いて書きつけている。ここで研究したりしているんだろうか。
 その人は私に気づくと、「あ、すみません」と言って道を空けてくれた。肩のあたりで切り揃えられた髪がふわりと揺れる。あ、画になる人だ、とつい思ってしまった。
「写真を撮られるんですね? お邪魔してごめんなさいね、どうぞ」
「いえ、あの、お構い無く……」
上品に微笑みかけられて私はかえってどぎまぎした。そうこうしているうち、彼女はさっさと歩いて行ってしまう。
 あの人にモデルになってもらえたら、と、私は不意に思いついた。
草花だけを撮ろうとするとどうしても、何が正解なのかわからず堂々巡りに陥ってしまう。題材として植物を選んでおきながら、私は早々に行き詰まっていた。植物に加えて、人をフレームに入れたら、また違った印象が加わって、撮りたいイメージも掴めるのではないか。私は安直にもそんなことを考えたのだった。
 とはいえ、あの人はきっと研究のためにここへ来ているのであって、暇なわけではないのだろう。近くの大学の人だろうか。教授というほどの年齢ではなさそうだし、学生か、あるいは助教とか。きれいな人だったと思う。ミルクティーみたいな色の、ゆるやかにウェーブのかかった髪。凛とした顔立ち。品のある佇まい。黄色のブラウスが周りの草木と好対照を成していたのも印象深く写った。
 追いかけてみようか、と考えながら私は既に小走りで彼女の後を追っていた。とはいえ、植物園の中は広い。もう一度彼女を見つけるのは困難を極めた。たとえば私がもっと植物に詳しければ、さっきあの人が見ていた花の種類から、次にどの花のところへ行くか予想できたりするんだろうか。さすがにそんなことはないか、と思い直しつつ、ひとまずは園内をぐるぐると歩き回る。
 もう外に出てしまったのかなと思い始めたその時、私は彼女を見つけた。ほらやっぱり私はツイてる、と心の中でガッツポーズを決める。これはきっと何かの縁だ。
「あのう、すみません」
 さっきと同じように花を観察している様子のその人に、恐る恐る声をかけてみると、彼女は少し驚いたような顔をしてこちらを振り向いた。
「ああ、さっきの……」
「すみません、今度はこっちがお邪魔しちゃって」
「ここの写真も撮られますか? ちょっと待っててくださいね、すぐ済むので――」
「あ、いえ、そうではなくて」
 急いで場所を空けようとするのを制して言うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あの、突然こんなこと言って変に思われるかもしれないんですけど、お願いしたいことがあって」
「お願い? 私に?」
 彼女はますます首を傾げる。私は直球で依頼することにした。
「写真のモデルになっていただきたいんです。あなたと、ここの植物を、撮らせてくださいませんか」
 一笑に付されるかとも思ったけれどそんなことはなく、ただすんなりと引き受けてくれるのでもなく、彼女は腑に落ちないような顔をして、「モデル……?」と呟いた。
「そうです。お願いしたいんです」
「私を撮るということですか?」
「はい。あの、何かお礼はさせていただきますから……」
「いえ、そういうことじゃないんです。何も見返りが欲しいなんて思っていませんし。ただ、どうしてなのかなと……」
「それは……」
 どう説明したらいいのか私は悩んだけれど、なんとなく、この人ならちょっと変なことを言っても許してもらえそうな気がした。
「コンクールに出す写真を撮ろうと思っていて。今までは街の風景とかを撮ってたんですけど、なかなか良い結果が出なかったので、違う題材にしてみようと思って、それでここに撮りに来てみたんですけど……なんというか、植物だけを撮るのって難しくて。どう撮ったら正解なのか全然わからなくて。でも、さっき見ていて、誰か一緒に映るモデルさんがいたら、こう……撮りたい画が見えてくるんじゃないかなと思ったんです」
「それが私ですか?」
 彼女は目を丸くした。私は頷く。
「なんというか……変な言い方ですみません、でも、ぱっと見て、画になる人だと思って」
「それは……嬉しいけど、私は全然モデルの経験なんてないですし」
「いえ、その、私も全然プロなんかじゃないですから」
 そう言ってから、プロじゃないのは見ればわかるだろう、と少し恥ずかしくなる。けれどもここで引き下がりたくはなかった。
「花の観察をされているところが、なんというか、すごくいいなと思ったんです。あの、何かポーズをとってもらったりとかするつもりはないんです。自然にしていていただいて、私、いいなと思ったところを撮らせていただけたら、それで大丈夫なので……」
 彼女は少し考えるそぶりを見せた。
「コンクールに出す写真なんですよね。すみません、やっぱりそれはちょっと……」
「あ、あの……」
「その代わり、もしよかったら、あなたが写真を撮るお手伝いをさせてください」
「え?」
「植物の撮り方。正解があるわけではないと思いますけど、花や草木の魅力はそれなりに感じられるほうだと思うので、私」
 彼女が自信ありげに微笑んだので、私はその提案を受け入れてしまった。

「このあたりの高校の生徒さん?」
「このあたりというのでもないんですが、まあ、高校生です」
「そうなんですか。そんなに本格的に写真を撮っているなんて、すごいなあ」
「いや、カメラだけは立派ですけど、写真は全然……コンクールでも落選続きですし」
「でも、そんな風に真剣に打ち込めるものがあるっていうのは素敵だと思いますよ」
「そうでしょうか……なかなか、下手の横好きで」
「そんなの、まだまだこれからいくらでも上手くなるんじゃないかしら」
 他愛もない話をしながら、私たちは植物園の中を歩く。
「さっきはちょっと偉そうに言ったけど、私は自分で植物の写真を撮るわけではないから、技術的な話はできないんです。ごめんね。でも、植物の見方ぐらいはお話できると思うから、参考にしてもらえたらなと思って」
「研究してるんですか? 植物」
「まあ、そんなところです。まだまだ見習いみたいなものですけどね」
 はにかんだように笑う彼女を見ていると、やっぱりこの人と花を一緒に撮りたいなという気持ちが頭をもたげてくるのだけれど、あまりしつこく言うと嫌がられそうだから私はおとなしく彼女について歩く。
「ああ、これなんかいいんじゃないでしょうか」
 そう言って彼女は、そのブラウスみたいな黄色い花の前で立ち止まった。
「今日は天気もいいからこの色が映えるでしょう」
「これはなんていう花ですか?」
「ヤエヤマブキ。春の花として有名ですけど、この時期にも咲くんですよ」
「あ、山吹色っていう時の、ヤマブキがこれですか」
 言われてみれば、確かに山吹色とはこの花の色なのだとわかる。花の名前は知っていても、それがどんな花なのか、私は全然気にしてこなかった。よくもまあこんな状態で植物を写真の題材にしようなんて思えたものだ。
「ヤマブキを園芸用に改良した品種です。種を作らず、地下茎で増えます」
「ちかけい?」
「地面の中で、根を横に伸ばしてそこから増えていくんですね。ミントやドクダミなんかもそうです」
 なんだか植物学教室みたいになってきたなあと思いながら聞いていたら、彼女は花に顔を寄せてじっと見つめ始めた。
「実をつけないということから、この花の枝に貧しい家の悲しさをなぞらえるという故事もあるんです」
「えっ、こんなに綺麗な色の花なのに」
「そうでしょう。実をつけないのは、園芸用に育種されて、雄しべが花びらになって、雌しべも退化しているからなんですが、それでも逞しく命をつないで、美しい花を咲かせています」
 そんな話を聞きながら改めてヤエヤマブキの花を見ると、なんだかこちらがどきりとするような威容がある気がしてくる。
「花言葉は、気品、気高さなどと言われています」
「確かに、そんなふうに見えてきました……私、この色好きです。気品っていう花言葉、しっくりきますね」
「少し赤味のある黄色だから、華やかだけれど落ち着いて品のある印象なのかもしれませんね」
「山吹色……昔持ってたハーモニカがこんな色でした」
「ハーモニカ?」
「あ、関係ない話ですみません。ちょっと懐かしくなってしまって」
 通りすがりに出会った人に貰った、黄色いハーモニカ。吹けるようになったら聞かせるからねと約束したけれど、あの人にはもう出会うことはないだろうなと思う。ハーモニカもどこかへ仕舞い込んでしまったままだ。私が今こうして外を好きなように出歩いていられるのは、その約束のおかげでもあったのだけど。

「植物学者の方って、そういう花言葉や歴史も知っているものなんですか」
 私はふと気になって質問してみた。
「みんながみんなそうというわけではないですよ。花言葉なんかは、私の研究にもほとんど関係ありませんし」
「じゃあ、どうしてそんなに詳しいんですか」
「私は、植物の声を聞ける研究者でありたいんです」
 そう話した彼女の瞳が、なんだかとても深い色を湛えているように見えて、私はまたどきりとした。
「普段、私たちが何の気なしに見過ごしてしまう植物も、生きている、というのは、私が尊敬する植物学の先生の言葉なんですが――私はそれを見過ごしたくないなあと思って。だから、植物に関わることならなんでも、調べます。知ろうとします」
 私は彼女の言葉を聞きながら、これはほんとうに、魂をかけて何かに打ち込んでいる人の言葉だと、そんな気がしていた。これぐらいの気概がないと、何か一つの道でやっていくというのは難しいのかもしれない。そう思うと少し怖くなった。彼女はさっき私に、打ち込めるものがあるのはいいことだと言ってくれたけれど、私はほんとうの意味で写真に打ち込めているんだろうか――。
「……話が長くなりました、すみません。でも、そういうふうに、植物の声を聞くつもりで写真を撮ってみたら、もしかしたら上手くいくかもしれないなと、すみません、写真については素人考えですが。どうですか」
 私はやや茫然自失となりかけながら、「はい、ありがとうございます」と小さく答えた。その様子に気づいたのか、彼女は心配そうな顔をして、「ごめんなさい、気に入りませんでしたか?」と尋ねる。
「いいえ! 決してそんなわけじゃないんです。ただ……お話を聞いていたら、なんだか、私、甘かったのかなと思って」
「甘かった?」
「なかなかコンクールで結果が出ないから題材を変えてみようとか、花が上手く撮れないから誰かに写ってもらおうとか考えてましたけど、それって、ちゃんと本気で、どうしたらいい写真が撮れるかって考えてなかったんじゃないかなって……あの、何かのプロとか専門家としてやっていこうと思ったら、そんなんじゃだめですよね」
 ああ、また喋りすぎてしまった。いつも私は、相手が初対面の人だろうと、慣れてきたら調子に乗って喋りすぎてしまう。それで言わなきゃよかったと後悔する。こんなことを話しても困らせてしまうだけだろうに。
「……写真を撮るようになったのは、何かきっかけがあったんですか?」
 彼女は穏やかな声で尋ねる。
「中学校に入る時に、カメラが欲しいって親に頼み込んで、買ってもらって……でもほんとうのきっかけというか、写真を撮りたいと思ったのはもう少し前で」
 どれぐらいなら喋ってもいいんだろう。考えてみたら、私は彼女が研究のためにここに来ていたのを邪魔して、時間を奪っているのだ。でも彼女は落ち着いた様子でじっとこちらの言葉を待っていた。もう少しだけ話してみよう、と私は決めた。
「私、小さい頃身体が弱くて。入院したり、手術も受けたりしてたんですけど」
 身体が弱い、という表現を使ったのは、変に気を遣われたくなかったから。ほんとうは心臓に持病があったせいで、入退院を繰り返した幼少期だった。一時期は長くはないとか言われていたらしい。そんな話は、大きな手術が無事に済んで、病院の先生が驚くぐらい順調に元気になって、こうしてすくすく育ってから、笑い話のように聞かされたことだけれど。
「その頃、私の兄が」
「お兄さん?」
「はい。兄は私が退屈しないようにって色々お見舞いのたびに本とか持ってきてくれて。兄の自作のお話なんかもありました。そういうの考えるのが好きみたいで。ちょっと、まだ小学校に上がったぐらいの子どもには難しいところもあって内容は覚えてないんですけどね」
 彼女は興味深そうな眼付で私のほうを見ている。
「でも、覚えているのが、その兄のノートに挿絵代わりに貼ってあった写真で――新聞とか雑誌の切り抜きだったと思うんですけど。それを眺めて色々想像するのが楽しかったんです。この街にはどんな人が暮らしてるのかなとか、この人はどんな気持ちなのかなとか、この食べ物はなんだろうとか」
「……写真って、知らない世界も見せてくれますものね」
「そう、そうなんです。それで、私も自分の病気が治ったら、この写真に写っているみたいな場所を自分の目で見に行って、そうして、そこで今度は自分で写真を撮って、またほかの誰かに見せてあげたいなと思ったんです」
 そうだ、と話しながら私は思った。だから私は街の風景を撮り始めた。自分の目で見た街を、自分にしか撮れないような形で写真に残したかったから。
「いろんな場所、見に行けていますか」
 私は曖昧にうなずいた。
「手術が上手くいって、ほとんど入院も必要なくなって、普通に出歩けるようになったけど……まだ、あまり遠くへは行けていません」
「それはどうして?」
「自分のすぐ近くに、まだ、撮るべきものがたくさんある気がするから」
 口に出した瞬間に腑に落ちた。私が何の気なしに見過ごしているもの。それは植物に限ったことではないのかもしれない。
「あの、せっかく色々話してくださったんですけど、すみません。この花の写真は撮ります。でも、もしかしたらコンクールに出すのは別の写真になるかもしれません」
 私がそう言うと、彼女は笑みを浮かべて答えた。
「それがいいと思います。もしこの花を撮ってみてそれが気に入れば出してくれてもいいし、もっと他に撮りたいものがあるならそれを選んだらいい。まだまだこの先、長い道のりだと思うんです。だから、目指すところを見失わないようにしながら、試行錯誤して。そうして、いろんな人やものごとに出会って、そこからまた次の発見があったり、何かすてきなものが得られるかもしれない」
 まだまだこの先、長い道のり。それを思うと気が遠くなりもするけれど、彼女の言葉はなんだかその道を照らしてくれるように聞こえた。
「まあ、これも受け売りなんですけどね」
 彼女は照れたように笑う。
「それも、さっきの植物学者の方の言葉ですか?」
 そう聞くと、今度は彼女が曖昧に首を横に振った。
「もっと身近な人です。私はその人のおかげで、今こうして研究者としての道を進めているんですよ」
 彼女の表情はなんだか意味深長に見えたけれど、それは気のせいかもしれない。
 そのあと私は、ヤエヤマブキの写真を数枚撮った。まだこれをコンクールに出すと決めたわけではないけれど、花の声を聞くようなイメージで撮るのはなんだか新鮮で、手ごたえがあるような気がした。
 写真を撮る間、傍らで待ってくれていた彼女に、私は声をかけた。
「すみません、最後にやっぱりもう一つだけ、お願いしてもいいですか」
「はい、なんでしょうか」
「やっぱり、あなたの写真を撮らせてくださいませんか。コンクールに出す写真とは別です。そのヤエヤマブキと一緒に」
 彼女はちょっと意外そうな顔をして、それから、柔らかく微笑んで答えた。
「一枚だけ、ほかの人には見せないということなら、写りましょうか。今日の出会いも、もしかしたらこの先、何かあなたにとって大事なことにつながるかもしれませんからね」
 
 ヤエヤマブキの前に立つ彼女をファインダーに収める。
 気品、気高さ。それはこの人を表す言葉でもあると思った。そうして、私の目指す姿でもあった。今日、この人に出会って、そうなった。
 せっかくここまでつながった命だ。逞しく、気高く、進んで行ってやろう。
 そう心に誓いながらシャッターを切った。

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