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歌舞伎町家出少女、ホストクラブに行く

自我というものが、蝶子にはほとんどなかった。ご飯をどこで食べるかと問われても、どこでもいい。友人や恋人と待ち合わせて、何がしたいかと問われても、なんでもいい。口癖は
「うん」
 だった。
 そこが家出少女の宿だと知ったのは、自分が家出少女だからである。歌舞伎町の完全個室のネットカフェの前で、蝶子はうずくまって電話の切れたばかりのスマートフォンを片手に涙を拭っていた。
「どうしたのお姉さーん、楽しいことして悲しいことは忘れようよ。ホストクラブ行かないー?」
 上から降ってきたキャッチの顔をゆっくり見上げた蝶子は
「うん」
 と言ってキャッチについていった。うすら寒い春だった。
 キャッチに連れて行かれたホストクラブone’s は、身分的にはまだ高校生である蝶子を、18歳だから大丈夫という理屈で歓迎し、酒と灰皿を蝶子に提供した。かわるがわる卓につき「初回」への自己アピールをするホストたちにつけてもらったタバコの煙をくゆらせながら、もう帰ろうかと蝶子が思っていた時、蝶子の卓へ最後にまわってきた楓が開口一番
「かわいい」
 と言った。
「うん」
 と蝶子が答えると、楓が笑った。
「可愛いって言われてうんって答える子はじめて見たよ。あ、隣座ってもいい?」
「うん」
 楓が隣に座ってきて、蝶子は心臓が飛び跳ねそうになった。両サイドに金のメッシュが入った茶髪の髪は、ゆるやかにウェーブしていて、襟足が跳ねている。長い前髪の下にはくっきりとした大きな二重の目がのぞいている。格好良かった。何よりも印象的だったのは、美術の教科書に載っていそうな、蝶子が昔予備校でデッサンした彫刻のように高く美しい形をした鼻だった。
「かわいいからアイシャドウ貸してあげる。特別だよ」
そう言って楓は白いスヌーピーのポーチからアイシャドウを取り出し、蝶子に差し出した。『特別に』という言葉が蝶子の頭の中で反芻した。蝶子の隣で楓は通りかかった後輩のホストに声をかけた。
「ミラー持ってきて」
「え?」
「ミラー!」
 楓が語気を強めたので蝶子はびっくりして楓を見てそして彼の容姿にうっとりした。
後輩ホストのもってきたコンパクトミラーをのぞきながら蝶子がアイシャドウパレットのショッキングピンクを腫れた瞼にぽんぽんとのせていたら、突然楓が耳打ちしてきた。
「ねえ、このあとホテル行こ」
 びっくりして蝶子が楓を見ると、楓はいたずらな笑みを浮かべていた。楓は大人というよりは少年だった。蝶子とたった2つしか変わらない。
 傷ついた家出少女を堕とすには、美少年のその一言で充分であった。蝶子はまた
「うん」
 と言った。
「飲み直ししてくれる?」
 「うん」

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