「もし全部だめだったとしても私はちゃんと私になれる?」
好きな漫画に「わたしのかみさま」という短編集がある。これは『九井諒子作品集 竜のかわいい七つの子』に収録されているお話で、中学受験をする小学生の女の子が主人公。
「たくさん勉強していい学校入って 最高の施設が揃った研究所で世界一の海洋学者と呼ばれつつハリウッドの大スターと結婚する」ことを夢見ている女の子のお話。
私は、中学受験なんて選択肢がない地域で育ったからそういう意味では全然境遇は違うけれど、このお話の中では子供のときに感じていた(そして今も感じている)些細で、でも目をそらしたくなるくらい重大な不安について描かれている。
物語の途中、ある夜に、彼女は父親に対してこのように話す。
「もし全部だめだったとしても私はちゃんと私になれる?」
この言葉は、ずっと私が抱いてきた不安そのものだった。
私が私であることにハードルを課して、それを超えることができなかった瞬間に、過去も未来も、全てが現在から崩れ去っていってしまうような不安。
彼女の言葉を補うとしたらこうなるだろう。
「もし全部だめだったとしても私はちゃんと(思い描いてきた)私になれる?」あるいは「もし全部だめだったとしても私はちゃんと(みんなが期待してくれていた)私になれる?」
たくさんの失敗をして、時にはハードルをくぐり抜けるようなことや、なぎ倒すようなことをして、私はなんとか生き延びてきた。けれども、今の私が「あのとき描いていた」「周囲が期待するような」私であるかということは自信がない。夢も叶えることはなかったし、できる範囲でできるだけ背伸びをしてきただけだ。
私が私になれないことは、多くの場合致命的なことではない。私になれなくったって、私は生きていくことができる。
けれども、今なお私は、焦っている。私はちゃんと私になりたい。この焦りがなくなってしまったら、それはきっと私ではなくなるときだ(入れ子になっているような関係性……)。
少しずつでも、私が私になれるといいな、そう思い続けたい。
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