見出し画像

消極的生命

食事をするのがたまらなく苦しい時がある。拒食とか、そういうわけではないけれど、食べるという行為が恥ずかしいというか、自己と矛盾してしまうのだ。

常日頃、どちらかというと厭世的に生きている。質問紙で

「あなたは厭世的ですか?」
1. 厭世的でない~5. 厭世的である

という選択肢があったら4に丸をつけるくらいの厭世家だ。世界には美しいことも楽しいことも、幸福なことも、それなりにあるということは知っている。それでも、今生きていることに納得ができずに、明日なんらかの外的な要因で死ぬとしてもそれは喜びを持って受け入れられると思っている。

例えばそんなことを身近な人に話したら悲しんでくれるだろうこともわかるからこそ、どこにも吐き出すことができなくて、ただただ自分の中で肥大を続けるしかない。何年、何十年、抱え続けているだろうか。いつまで抱え続けることができるのだろうか。これまで抱え続けてきたのだから、この先も大丈夫かもしれない、ある日突然、何もかもがだめになるかもしれない。自分のことがなによりもわからない。

食べることは生きることである、と様々な人がこれまで伝えてきた。そのとおりで、食べなければ生きることはできないし、美味しく食事をすることはその次の瞬間の活力へとつながるだろう。だから、私は食事が苦しい。積極的に生きたくない、生きたくないのだ。

先日宴席があって、そこで「人生で最後に食べたいものは何?」という話題になった。よくあるものだし、そういった問いに対する回答を聞くのは好きだったのでおとなしく聞いていた。あるものは具体的な店名と料理名をあげる。思い出の場所だからと。あるものは何十年も連続でミシュランで星を獲得している店の名前をあげる。肉、とにかく肉だ!という者もいる。チョコレート!肌荒れとかもう気にしなくていいし!

とてもよく性格を表しているなとおもって微笑ましく聞いていると急に私にも同じ問いがまわってきた。
実は各人の回答を聞きながら考えていたのだけれど、なにも思い浮かばなかった。ほんとうに。何一つ。曖昧に笑いながら「白湯ですかねぇ……」と絞り出すと周囲に驚きと笑いが広がった。「ブランディングじゃなくて、ほんとうにそれ?」だってわからないのだ。なんだか欠陥があるようにさえ、人生で経験するべきものを飛ばして生きてきてしまったようにさえ感じてしまう。白湯ならば、身体に負担をかけないし、少なくともまずくない。柔らかいし、私のことを責めない。

食べることは生きることである、食べなければ生きられない。積極的に生きたくない、されども苦しみながら死にたくない。消極的に食事を行ってきたツケなのだろう。こういう些細なところで立ち止まってしまうのは。

でも、私は、私は、このようにしか生きられない。これ以外の生き方を知らないままに生きてきてしまった。「しまった」と書くほどに本当は後悔もしていないけれど。きっとこれからもそう。生きることを礼賛なんてできない。手放しで喜ぶことはできない。身体が生きたいというその声に消極的に従いながら、いつかちゃんとその願いを裏切ることができますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?