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三世の書、自由意志について

未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能とするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。
逆に、未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。
(テッド・チャン「あなたの人生の物語」『あなたの人生の物語』公手成幸訳 ハヤカワ文庫)

一貫して、そしてそれは経験則として、「自由意志はあるのだ」という立場でこの物語は展開される。自由意志があるのだから、未来を知ることができない。私自身の過去と現在と未来を記した『三世の書』があったとして、そこに記される未来を垣間見てしまったら、自由意志に基づいて、それに背くことができる。だから『三世の書』はその存在が成り立たない。論理的に存在は不可能である。

自由意志は、(経験則ではなく、実証として)存在するのかということも検討しなければならない。仮に自由意志が存在しなければ『三世の書』は存在しうるということになる。つまり、刺激と反応の連続によって常に未来は決定づけられるということだ。

こんな論文がある。

The point of no return in vetoing self-initiated movements
https://www.pnas.org/content/113/4/1080

脳から発せられる電気的信号によって身体的反応が起こる前に、その反応を拒否することができるかということを実験した結果についてまとめられている。

この実験は、200ms、つまり0.2秒より前が私達が私達自身の自由意志が介在する可能性がある時間であると示している。それ以上になってしまうと電気的信号によって命令されたレスポンスを実行する。

この200msが私達が自由に生きるために十分な時間かどうかわからない。ただ、この200msがある限り、やっぱり『三世の書』は存在し得ない。意志が介在する時間が0.2秒でもあるのだから。定められた反応以外をする余地が、私達には残されてしまう。

楽はできないのだ、と思ってしまう。すべてが刺激と反応で結び付けられていたら諦観だってできる。それ以上になる余地がないのだから。けれど、0.2秒だって自分の意志を入り込ませる猶予があるのかもしれない。そうなると委ねることはできない、考え続けなければならない。『三世の書』の未来の章は、ほら、いまも0.2秒の拒否の連鎖で絶え間なく書き換えられて、その存在を失っていく。

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