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手続きによって失われる記憶

春らしい、川を渡る吹く風は少し埃っぽくて、陽のひかりが滲んで見える、なんだかひかりを浴びるだけで生きていることが肯定されるような気分になるような日に、突然文字が理解できなくなった。

さっきまで当たり前のようにひかりを浴びて本を読んでいたのに、前触れもなく、言葉が頭を上滑りしていく。どうして言葉が理解できるのかわからなくなってしまって、頭が混乱する。どうして、さっきまであんなに晴れていたのに。読んでいた本はマクニールの『世界史』で序盤も序盤、最初の文明を人々が気付き上げようとしていたまさにその時だった。

言葉を発したら、意味をなさない、無意味な音の羅列になるかもしれないと思って、口を開くこともできなかった。頭の中で並べる言葉は意味を保っていたけれど、どのような思考のもと、その意味を解しているのか理解できなかった。そもそもこれに関しては理解できた瞬間は過去一度たりともなかったかもしれない。そういうことを否応なく思わされた。

この時得た、この感覚は、ピアノのコンクールや発表会の当日、発表の順番を待って客席で運指を確認している時の感覚と同質のものだった。仄暗い席で、他の人の演奏を聴きもしないで、膝の上でひたすら指だけを動かす。指を動かしていると、でもだんだんと自分がなにを弾いているのかわからなくなる。ある瞬間、指が止まって、楽譜も頭の中に描けない。焦って楽譜を開いてみても、自分がこれまでそれを弾けていたことが信じられないほどになにも頭に入ってこない。

つまりは、心理学でいうところの手続き記憶、一度形成されると当然のように機能するその記憶の瞬間的な喪失。

いざピアノを目の前にすると不思議なもので、膝の上では鳴らなかった音も、最初の一音さえ鳴らしてしまえばするするとつられるように次次と鳴り始める。記憶は、取り戻される。

言葉もまた取り戻される。意味を理解しようとした瞬間にその意味は失われていくのに、意味の理解を諦めたのならば、私はその意味を理解することができる、知ることができる。

そら、という。青い、私の見上げるもの。
はる、という。淡い、私の纏うもの。
かぜ、という。眩い、私を通り過ぎるもの。

瞬間、失われた概念に再度、意味を与えていく。何度だって、私は言葉を知り、定義することができる。そのことに安心して私はもう一度、本に目を戻す。絶え間なく、文明は築かれ続けている。



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