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その意味は、きっと時間が教えてくれるー『コントが始まる』

あっと言う前に春クールのドラマが終わってしまった。
時の流れの速さには驚くばかりだけど、何はともあれ、今クールの私のお気に入りドラマは「大豆田とわ子と三人の元夫」と「コントが始まる」の2作品。

どちらもオリジナル脚本であり、出演俳優が豪華というのが共通点。
先週両作品共に10エピソードを終え、2021年春の楽しみも同時に終了。

ともあれ、まずは「コントが始まる」について感想を綴ってみる。


1.「推しがいる人生」の幸福について

「推しがいる人生」

私はこれを長いこと理解できなかった。
「推しがいると、一体どうだっていうのだ?」
と、クエスチョンマークが頭にいくつも浮かぶ状態だった。

しかし転機が訪れた。

昨年、「愛の不時着」で韓ドラに沼落ちし、人生で初めてその意味を知ったのだ。
主役のヒョンビンさんにハマり、「推しのいる人生とはこうも幸福感に包まれるものなのか」と歓喜した。


さて、「コントが始まる」に話を戻すと、「推しのいる人生」の喜びを享受しているのは、有村架純演じる中浜里穂子。彼女はちょっと面白い人だ。

たとえば、どこまでも丁寧語で通す律儀さとか、マクベスへ思い入れの深さとかその方向性とか。

里穂子は職場で辛い経験をした後、マクベスのユニークなコントに救われファンになる設定だが、彼女を見ていると「推しがいる人生の幸福感」が溢れ出ていてこちらまで幸せな気持ちになる。

エンターテイメントの本質は、人を幸せな気分にしたり楽しませたりすることにあると思うので、誰かに(たとえそれがたった一人だったとしても)推されているエンターテーナーは、それだけでとても意味ある存在。里穂子にとってはマクベスがまさにそうだった。

加えて彼女の場合、自分の「推し」が日常生活圏内に存在し、言葉を交わすこともできるという特典付き。
と言うか、もはやマクベスの面々とは友達の域だ。
となると、その幸福度の高さはいかほどのものだろう。


何気なく使い始めたタオルケットがいつの間にか手放せなくなるように、私の日常に欠かせない存在となっていった


里穂子のこの言葉がその想いを集約している。
気がつけば、いつもそばにあるマクベスのコントとマクベスの面々。
彼らが存在しているだけで日常が安泰なのだ。

そして、マクベスの存在や彼らとの関係性が里穂子の閉じた心を開き、人生を前に進める勇気を与えた。それだけでも、マクベスの泣かず飛ばすの芸人活動に意味が見出せる。だって人を楽しませ、そして救っている。
つまり彼らのコントと彼ら自身が、エンターテイメントとして立派に成立しているということ。



ところで、有村架純は本当に上手い女優だと思う。
里穂子の発する独特な言葉の数々は、彼女の外見の清楚さや上品さがあるからこその可笑しみ。つまりはギャップ萌え。

春斗と里穂子の関係性が「花束みたいな恋をした」の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)カップルのそれとは全く違うことも、花恋ファンとしては興味深かった。


2.始まれば、終わる。何事も

「推される側」であるマクベスの立場に立って考えてみる。

高校の同級生である3人、瞬太(神木隆之介)、春斗(菅田将暉)、潤平(仲野太賀)はコンビを組んで10年を迎えようとしている。
里穂子のようなコアなファンは少しは存在するものの、売れない芸人であることには変わりない。

それでも、良き仲間と夢を追いかけることができる彼らはこの上なく幸福ではある。
一方で、コントだけでは生きて行けないのも事実。
彼らは自らに課した「10年」という節目を前に「決断の時」を迎える。


さて、この物語が描いているのは、3人の青年が夢を追いかけた時間(財産)と、「解散」によって夢を諦めるという苦渋の決断、そして新たな一歩を踏み出すまでの変化の過程だ。

成功物語ではないので、展開が地味と言えば地味。
でも、だからこその奥深さがある。
人生は勝ち続けることはできないので、「夢破れる痛み」を知る多くの視聴者は、彼らの決断やそれに付随する感情に共感するのだ。



そして「マクベス解散」。

それはややもすればそれまで過ごした時間の否定のようにも感じられ、同時に、愛おしき青春時代との決別を意味する。

俺にとってマクベスとは何だったのか



「いざ、解散」となっても、春斗の心に残るその問いの答えはなかなかでない。
かけた時間の分だけ執着が生まれるのは、他の可能性を捨てて20代を駆け抜けてきたからであり、執着の強さはコントに取り組んできた真剣度と比例する。

でも、人間は同じところにずっと止まっていることはできない生き物だ。
生まれ、成長し、そして老いていく。
常に変化しながら生きていくのだ。
変わることは怖いけど、変わらないと生きていけない。

追いかける夢のゴールがどんなものになるかなんて、それを追いかけ始めた時には誰にも予測ができないけれど、始まれば終わるのだ。何事も。
それに彼ら自身、モヤりながらも、終わったことで少なからずホッとした部分もあったはず。

そしてこの「決断」も、次のスタートを切るための通過点に過ぎない。
人生はこうやって続いていく。


さて、毎回前フリとして3人のコントから始まるこのドラマ。
面白いのか寒いのかがよくわからない冒頭コントがクセになる。
回を重ねるごとに「観ずにはいられない」とう気持ちになるのは、私もマクベスの魅力にハマった一人ということなのかしら。

また、3人の掛け合いもこのドラマの見どころだけど、個人的には仲野太賀の演技が光っていたという感想。
神木隆之介も菅田将暉も大好きなのだけど、また、二人の演技ももちろん素晴らしかったけど、ここでは仲野太賀推し。彼を観たくて毎回オンタイムで鑑賞した。


「コントが始まる」
終わってしまって寂しけれど、そしてまだまだ彼らの今後を見守っていたい気分だけど、「始まれば終わりがある」のは仕方がないことなのよね。。


3.「どんな意味があったか」は、きっと時間が教えてくれる

人生は、達成したこと、あるいは達成しなかったことの集大成でできている。
成功も失敗もその中に内包され、それら全てをひっくるめて「人生」だ。

それはマクベスの面々、中浜姉妹も然り。

そして、20代の彼らには多くの選択肢が手元にあり、そこから自分にとっての正解を探し出すという簡単ではない作業に追われる。これも人生。



ところで、「20代後半の頃、私は何をしていたっけかな?」とこのドラマを観て思い返した。

20代、私は会社員として働く傍ら、興味のあることを片っ端から試していた。
試行錯誤した結果夢中になれたのは、物語を作ること、そしてそれを視覚に訴える形で表現することだった。
具体的にはシナリオを書いたり、映画を撮ったり、写真作品を製作したり、そんなことだ。でも、それでは食べていけないこともわかっていて。

現実問題として会社員としてキャリアを積む方が間違いなく効率的で、結局はそちらに舵を切った。つまりは辞めた(趣味として写真は撮っていたけど)。社会的信用と収入を同時に得ることができる仕事を続ける方が、楽だったからというもあるし、会社での仕事がそこそこむいていたのもある。


あれから年月が流れた。

長きにわたる会社員生活とそのキャリアに別れを告げフリーランスになった今、まだあの頃の情熱が消えていないことを知った。
そして今再び、シナリオを書き始めたりしている。
そういう意味ではあの頃の続きを、私はまだ生きているのかもしれない。



ともあれ、真摯に取り組んできた出来事を辞めるという決断をしたその時、それまで投資した時間には「意味があった」と思いたいのが人情だ。でも実際のところ、どんな意味があったかなんて、辞めたその時にはわからない。

意味を見出すには時間が必要なのだ。
そう、いつか時間が答えを教えてくれるはず。

そしてある時、たとえば人生の後半になって「あの頃」を懐かしく振り返ることができるなら、多分その人生は幸せなのだと思う。


後から振り返った人生がくだらないコントのように見えたとしたら、それはそんなに悪くない人生だったと思えるんじゃないか


この、春斗のこの言葉どおりに。




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