同じだから救いたい、同じだから救われる
傷のなめ合いは、
私は好きではない。
でも、でも、
と思うのだ。
ときに、同じ境遇の人に、
ただ分かってもらいたいと。
同じ痛みを持つ人に。
同じ痛みを知る人に。
ひとりでは、
痛みを持ち続けることは辛いからだ。
ピアサポート、当事者グループが必要とされる理由は、
そこではないだろうか。
薬物依存症の改善には、
当事者同士での励まし合いが欠かせないときく。
依存=弱さ ではない。
そんなに簡単なものではない。
と信じたい。
摂食障害は、
「食べること(食べるという行為)」への依存ともいわれるため、
当事者でもある私には、
“信じたい” としか言えない。
アルコール依存症の人が、
食用ではないアルコール(医薬品、燃料等)でも、
欲する気持ちは、なんとなく分かる。
スイッチが入っているとき、
玄米や高野豆腐を、生の状態であっても食べる。
このときの感じは、当事者ではなければ理解しがたいはずだ。
線引きのできないものは多い。
生活に支障をきたすと、
“病気”となるわけだが、
どんな生活をしているか、したいか、でまた変わってしまう。
本人の頑張りや気合いとも絡み合い、複雑でややこしい。
結局、かなしい結論、
「自分が悪い」にたどり着く。
本人は、
「やめられない自分が悪い。
意志の力が弱いからだ。」
と。
家族は、
「気がつけなかった自分が悪い。
もっと早く手を打てれば。」
と苦しむ。
―――
実際、社会はそう見る。
当事者たちの問題にして欲しがっているようにも、どこか感じる。
そう片付けた方が、すっきりするかもしれない。
でも、でも、
と思うのだ。
そこで放り捨てるのは、
人の心ではないかと。
うつ病でも、
摂食障害でも、
何かの依存症でも、
そのときのその人にとって、
メリットがあったから、起こった。
だれしも、いやなことはある。
ストレスを発散しながら生きている。
逃がし方が、度を過ぎた。
健康的ではなかった。
とんだ狂った人でも、
恐ろしい人でもない。
下手くそだったのだ。
―――
なぐさめ合っていても、
進展はないかもしれない。
でも、はたして、
進むものだけでよいのだろうか。
ひとりじゃないと思えることで、
「うんうん」と大きく、心からうなづいてもらえることで、
生きられる。
苦しいこと、辛いことは
美しくなんかない。
「辛」は一本足すと、
「幸」だとよく言う。
(この考え、好き。漢字の成り立ちとしては違うようだけれど。)
まずは、もう一本抜け落ちないことが肝心だ。
だれかの大事な一本を、
気づかずに、引き抜いていないだろうか。
辛い、とも感じられなくなってしまうことは、かなしい。
「立」っていられなくなったら、かなしい。
―――
克服していない人から発せられた言葉には、
克服した人とは異なる力がある。
そう信じている。
辛さを感じるあなた自身を、私は愛します。
あなたの心が、素直な証拠だから。
人間らしい不器用なあなたが、私は好きです。
2024.4.2 / 4.3
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