努力することは良いこと?
http://news.livedoor.com/article/detail/13750323/
明石家さんまさんのこの記事に深く同意した。
「努力って当たり前」その通りだと思う。
では、そもそも努力とはなんだろうか。
本当に良いことなんだろうか。
努力とは辞書曰く
「目標の実現のため、心身を労してつとめること」
である。
うーーん、巷で使われている努力ってそういう意味なのかなって思ってしまった。
音ゲーで例えてみる。
「レベルが難関の曲をノルマクリアする」ために何十回もプレイしてようやくできたとする。
これは努力と言えるのだろうか。
辞書的にはこれは努力と言えそうだ。
目標もあるし、何回もプレイして頑張って達成したものだ。
でもこれは、大抵の人は「単なる遊びでしょ」と言い切ってしまうのではないだろうか。
対する自分自身も努力しているという感覚はないのではないだろうか。
つまり、努力とは「勉強など何か遊び以外で偉いと思われるような行為に目標をつけて、そのために心身を労してつとめること」の方が実世界には合っているのではないか。
偉いとは他者との比較の上で成り立つ言葉だ。
勉強することは「偉い」
遊ぶことは「偉くない」
仕事することは「偉い」
ニートであることは「偉くない」
これって誰が決めてるのだろうか。
基準はどこにあるのだろうか。
もしも、アドレナリンが人の健康に良くて大量に分泌することが偉いとなった世界があるならば、遊びの方が偉い行為になって勉強はあんまり偉くない行為になる。
もしも、世界に一人しかいなかったとしたら何が偉いのか偉くないのか分からないしそもそもこんな言葉は存在しないだろう。
だから、偉いという言葉には実世界や他者との比較が大前提に置かれているのだ。
言葉にはたくさんの比較ゲームが大前提として根底にあるものがたくさんある。
努力。
本来努力って自分ためにあるものだ。
だれかに自慢したり驕ったりとかそんなもののためにあるものではない。
私自身は遊びも勉強も仕事にしても何にしても、他人の時間の使い方に優劣なんてつけようがないと思っている。
ただ、自分の定めた目標のために、私を支配している無意識の赴くままに日々行動しているだけだから特に努力をしているという感覚はない。
そもそも遊びとか勉強とか仕事とかどれも生活の一部であって、わざわざ偉い偉くないで分類しようとしない。
偉くない行為をしている自分に気づいた時自己嫌悪に陥ったり自分を好きになれなくなってしまうからだ。
タイトルの私の回答は「努力とは良いも悪いもない」だ。
それだけだ。
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