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今と、千年前の女性たち

千年前の理想の女性とは


女性であることは、なかなか大変だ。

レ 白い肌は
レ 艶のある髪は
レ 美しい眉の形は、
レ 長い睫毛にするにはどうしたらいいのかと
現代女性たちは、何かに追い立てられるように
忙しい。

実は、千年前の宮廷の女性たちも、同じなのだ。

“長くて黒い髪にするには……”

“たくさんの黒胡麻の花を採取し、磁器のかめに
入れ、蓋をして密封し、これを土に埋めておく。
百八十日たったら土から出して髪に塗ると、長
くて黒い髪になる“

これは、『医心方』という書物の中に記された、
いにしえの処方の一つだ。
『医心方』巻四 美容篇 p13「千金方」

千年以上前に編纂された日本最古の医学書『医
心方』という書籍をご存知だろうか。

当時は、処方のことを●●方という。
こんな処方もある。

“顔のシミを治すには……”

“桃仁をすりつぶして篩(ふるい)にかけ、卵白
と練り合わせて顔に一日 四~五回塗ること“
『医心方』巻四 美容篇 p136「僧深方」 

“美人になる法……”

“隋の煬帝の「後宮諸香薬方」に記載された、顔
も身体も色白にする処方
橘皮、白瓜子、桃花の三種を搗いて篩にかけ、
食後に酒で方寸匙に一杯を一日三回服用する。
三十日で効果が現われる“
『医心方』巻二十六 仙道篇p68「後宮諸香薬方」

“人の身体を香ぐわしくする処方……”

“甘草、瓜子、大棗、松皮を同量ずつ粉末にして、
食後に方寸匙一杯ずつ、一日三回、服用する“
『医心方』巻二十六 仙道篇 p89 「葛氏方」

これが現代でも効くかどうかということより、
千年以上も前にそういう処方があるのは、当時
もそのような真剣な悩みがあったのだという
証左であり、悩みの事実そのものが興味深い。

しかも『医心方』は、丹波康頼という宮廷医に
よって撰集され、朝廷に献上された由緒正しい
医学書なのだ。

けなげに美容に励む千年前の女性たちのこと
を想うと、教科書の古典に出て来る、知識とし
ての登場人物たちが、いきなり3D動画のよう
に生き生きと動き出すのが、目に見えるようだ。

『医心方』の訳者である槙佐知子さんは、巻四
美容篇の序文で、こう記している。

“『医心方』が撰集された平安王朝の時代には、
身分の高い女性は人前には顔を現わさなかっ
た。扇の上にわずかにのぞく額の生え際の気品
や髪の長さと量が、女性美の評価基準だった“

殿方の前で、扇で顔を覆って隠していたという、
いにしえの女性たち。

扇からちらりと見える「白い額」と「黒髪」、
「生え際の美しさ」で勝負していたとは
当時の女性のすご味さえ伝わってくるようだ。

先ほどの処方、“黒くて長い髪にするには”、“顔
のシミを治すには”、“色白にするには”、“身体
を香ぐわしくするには” ……
女性たちの真剣さが感じられるというものだ。

けれど意中の男性の前で、彼女たちが本当に扇
の内に隠したものは、上気した顔と、故知らず
上がる体温、高まる鼓動ではなかったか。

いにしえの女性たちの体内の熱、脈拍、呼気の
匂いといった<身体感覚>が、こちら側に鮮明
に呼び覚まされる。

同じなのだ。
千年前も、今も
女性であることの様々な感情や思い

不思議なものだ。

有史以、九世紀までの漢訳された医書を集めた
処方一覧である『医心方』が、あるいは物語よ
り雄弁に、生身の女性たちのこころの在り様を
物語るとは。

今の女性像として、『医心方』が決定的に違うと
したら、それは『医心方』が朝廷に、帝に献上
されたものだということに由来する。

つまり、ここで述べられている理想の女性とは
帝や貴族たちのお世継ぎを生むための理想の
女性ということにほかならない。

『医心方』巻二十八 房内篇には、「入相女人」
(にっしょうにょにん)という言葉が出てくる。
「男性の寿命をふやし、長生きさせる女性」と
いうことらしい。

”「大清経」にいうには、入相女人とは、生まれ
つきすなおで気だても声もおとなしく、絹糸の
ような細くて艶のある真直ぐな黒髪がしっと
り身にそい、肌は柔らかく、骨は細く、背は高
からず、低からず、太くもなく、少でもなく“ と
続く。
『医心方』巻二十八 房内篇 p267 「大清経」

反対に、男性にとって悪い女性の相とは

“ぼさぼさに伸びて乱れた頭髪、(あからがお)、
(前頭と後頭が突き出した頭)、のどぼとけが
目立つ者、麦歯、男のような声、大きな口” と
続く。
『医心方』巻二十八 房内篇 p272 「玉房秘決」

“口やあごに細い毛が生えている者、骨がごつご
つと節くれだっており、髪が黄ばみ、肉づきが
悪く……そのような女性と性交すると、男はみ
な身体をこわしてしまう” とある。

はぁ……と、複雑な気分になる。

ぼさぼさで黄ばんだ髪に、髭が生えて、のどぼ
とけが目だって、男のような声……そのような
女性を、あまりお見掛けしたことはないが。

いにしえの睦み事
ほんの少ない時間で、第3者が相手を判断する
には、外見上の特徴で、内面の情愛の深さや健
やかさを判断するしかなかったのであろうか。

いのちを掛けた仕事

『医心方』は、千年の歳月を経て、今、この時
代に、全三十巻(33冊)の全貌が現れた。

それは一人の女性の、いのちを掛けた仕事だっ
た。

槇佐知子さんという作家であり、古典医学研究
者が、40年という歳月を費やし、現代語に全訳
し、序文や註釈などの形で精解したのだ。

濫用を避けるため、わざと難解にしてあるとい
う医書を解読するための字書を、佐知子さんは
自ら作った。
いわば、独学だ。

夢中で『医心方』と自作の字書に向き合ってい
たら、朝に握った小さなおにぎりたちが、夜に
はカピカピに固くなっていたと、以前、私たち
に笑って話してくださった。

彼女には、そうする理由があった。
そうしなければ生きていけない訳があった。

若くして両親を亡くした佐知子さんと妹さん

佐知子さんご夫婦を頼ってきた、高校生の妹さ
に、酷い仕打ち(sex abuse)をした旦那さん。
佐知子さんも整った顔立ちの美しい女性だが、
妹さんもとても美形だったそうだ。

美しい姉妹

妹さんは長年に渡る耐え難い事実を、佐知子さ
んに打ち明けて、その後、消息知らずとなる。

死に場所を求めて、樹海に入った佐知子さんが
富士山の五合目に至る頃、黒いザラザラとした
山肌に根を張り、フジザクラが咲いていたとい
う。独り立ち続ける富士の孤独に圧倒されて、
佐知子さんは立ち上がる。

“天を仰ぎ大地を叩いて泣いた者でなければ、そ
の仏も見えず、生かされている日々の真のあり
がたさも判らないのではないだろうか。のたう
ち悶えるような悲しみのどん底で、私はこれま
で見えなかったものがようやく見えて来たよ
うな気がする“
「古代の健康法をたずねて 医心方の世界」
槇佐知子 著 p25~26
                   
未だ誰も全訳していない
『医心方』を解き明かす

そういう見果てぬ夢があったから、佐知子さん
は生きて来られた。

『医心方』に向き合うことで、撰者の丹波康頼
や、佐知子さんが4箇所も見つけたという「鑑
真方」を通して、鑑真和上にも出会っていた。

それは、こころ踊る時間であったという。

小さくなった大量の鉛筆を、更に小さくナイフ
で削り、背中を丸めて、昼夜、原稿用紙に文字
を走らせる佐知子さんの姿と、佐知子さんの内
面で湧き起こっている数々のめくるめく感動、
いにしえの心身の世界のまばゆい輝き……

外と内のギャップは、はた目には分からない。
女性の幸せとは何かと、考えさせられる。

佐知子先生との出会いと別れ

そんな槇佐知子さんにお会いしたのは、今から
7年前、『医心方』を佐知子さんから学ぶという
寺子屋勉強会の時だった。

私は寺子屋勉強会の事務方のお手伝いをして
いたため、勉強会の席以外にも、佐知子さんに
直接お話しを伺う機会に恵まれて、とても貴重
な体験をした。

80歳を過ぎても、なお美しく、とても魅力的な
女性だった。

佐知子先生が、黒酢に漬けた鶏卵をパックに入
れて、寺子屋勉強会に持ってきてくださった。

皆で、手の甲に塗って試してみた。
黒酢と鶏卵の交じった、鼻につくような独特の
匂い。皆で笑い合った。
乾いた後、洗い流すと、塗っていない右手の
甲より左の甲の方が、色が白い!
ツルツルとすべらかな肌の感触も驚きだった。

佐知子さんは医師でも、古典研究の大学教授で
もない。市井の人だ。40年間、独学で、前人未
到の境地を拓いてきたのだ。

『医心方』にも、有毒な鉱物を用いた処方も確
かにある。科学技術など時代の制約もあろう。
一方、人間の身体を維持するのに、鉄やマグネ
シウム、亜鉛など微量な鉱物を必要とすることも
現代では分かっている。

安易に真似をしないというのは、現代人の私た
ち側の知見の問題ではないだろうか。

一部だけを取り上げて、「使えない」と判断する
のは、あまりにもったいないし、こころない。

佐知子先生がおっしゃったように、『医心方』は
その豊富な処方が、様々な分野に新しい視座を
与えてくれる。文学にも民俗学にも……

<<身体感覚>> なのだ。

『医心方』が取り上げる、人々の痛み、苦しみ、
悩み、喜び……そういったものすべてが「●●方」
という処方に表れているのだとすれば、私たちは
一気に、千年の時を越えて、千年前の生身の女性
たちと、初めて巡り合う。

それ、分かるわぁ
私も同じ

そんな会話が始まりそうな予感がする。

『医心方』を全訳・詳解することで、今と千年
前の人々の橋渡しをした槇佐知子さんが、昨年
末、お亡くなりになったことを知った。

お見事です。

ご愁傷様ですと、うつ向くよりも
お見事ですと、空に向かって掌を合わせた。

妹さんにはもうお会いになられましたか
鑑真和上には、丹波康頼博士には、直接対面し
てお話しされましたか

佐知子さんが残してくださった宝物……いに
しえの身体感覚を、これからも大切にして、
私たちはそれぞれのフィールドで活かしてい
きます。

それが佐知子先生への、オマージュ

『医心方』の中には、次のような胸をえぐられ
るほど辛いものもある。

“変成男子(へんじょうなんし)”
女の胎児を男に変える方法
“妊娠三ケ月の時に、東に向かって伸びた楊柳の
枝を三寸取り、着ている着物や帯に結びつける
と、誤ることなく、生まれる子は男になる”
『医心方』巻二十四 占相篇 p67 「産経」

変成男子などという時代の特殊な要請こそあ
れ、今も、千年前も、女性の悩みや望みは変わ
らない。

それを教えてくれたのは、40年という歳月を
『医心方』に費やした、一人の女性の仕事

気が遠くなるほど長い日々の積み重ねで、前人
未到の偉業を成し遂げた、そのエネルギーの源
は、一人の女性の胸を熱くする思いであった。

" 妹に

妹よ
あなたは津軽の海底をさまようのか
凍てた土に閉じこめられているのか
それとも、樹海をわたる風と化したのか
あなたが消息を絶って以来、今年は七周年__
生死を知るすべもなく
古代医学に支えられ
私は生かされて来た
私の仕事は、あなたと私の悲しみと苦しさの
結晶である
あなたの生存を念じつつ、私はこの書を
あなたに捧げる
  1986年2月9日"

「古代の健康法をたずねて 医心方の世界」
槇佐知子 著

人々の思いは受け継がれ、つながっていく
いにしえから、悠久の時を経て、今に……
そして次の世代の、未来に。


#創作大賞2023

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