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きちんとしないことをする

マインドフルネスができなくなってしまった。

わたしは、わりと頻繁に「マインドフルネス」をしていて、マインドフルネスのアプリに年間6000円くらい払って、心の平穏を得ていたこともあった。けっこうなマインドフルネスファンである。

マインドフルネスというのは、ものすごくざっくりと言うと、多忙な現代社会において意図的に休息の時間を作ることで、心の平穏を取り戻し、クリエイティブな能力を向上させましょうという、そこそこ素敵っぽい発想のもと作られた、働くひとのための瞑想プログラムのことである。

わたしは、なにかこの「マインドフルネス」的なものが、大きな「きちんとしよう」勢力が心の中に入り込んできているような気がしてきてしまって、すこしこわい。
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、集中力は多少回復するし、頭の疲れも取れてすっきりするのだけれど、「きちんと」派に頭が乗っ取られていっている感じが、ちょっとだけ、あるのだよな。
「こんまりメソッド(片付け術)」しかり、「ととのう的サウナブーム」しかり、すこし「人材のメンテナンス」っぽさがある気がしていて、(どちらもファンでありつつも)、それを喜んで享受してしまう自分にげんなりしてしまう。
もうすこし、アニマルな生き方ができればいいのだけど。ブーブー。

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最近は、そういう「きちんとする」大きな何かに対するささやかな抵抗として、Twitterに、とくに面白くもない写真や動画を上げ続けるという「へぼい社会運動」を最近はじめた。

(これは、ただ肉野菜炒めを作っている途中の動画、ちょっといい感じの音がした。)
「きちんとしていなさ」というか、人の揺らぎというか、そういうものを楽しんでいきたい次第・・。

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Youtubeを見ていると、「ひろゆき」とか「中田敦彦のYoutube大学」とかの動画がサジェストされてくる。だいぶ人気があるらしくて、「ひろゆき」はどこかの市の広報大使か何かになったようだ。じっさい、動画見てみると、論理的にはっきりしゃべっていて、えらいなあと感心する。
Twitterオンリーで社会運動を頑張っている人たちも、はっきりしゃべろうとしていて、えらい。

ただ、(えらいとは思うのだけれど)わたしは、そういうものを見るとき、ちょっとした寂しさが私の身体のなかでうごめくのを感じてしまう。
言っていることがどれだけ正しくても、その人が喋っていると言うよりかは、大きなモノがその人の口を借りて喋っているように見えてしまって、そこにその人はいるのかなあ、とぼんやり思う。

たぶん、大きなものの中で分かり合おうとしている限り、このからだのなかで蠢いてしまう寂しさは(誰からも)なくならないような気が、なんとなくしている。そういう分かり合うやり方じゃなくて、もっと「でくのぼう」的に、ぼんやり口を開けて居合わせるやり方をしてもいいのかもなァ、と。

(そもそも、互いがきちんと喋っていれば、何かが分かったり、分かりあうことができるということ自体、わたしはなかなか、いぶかしい。誰が分かりあっていると決めているんだろうか。分かることが分かっている[とされている]誰かしらがいない限りは、「わかり合う」なんて言えないんじゃないかしら。[そして、その分かることが分かっている誰かも、分かることが分かるとはどういうことなのかを分かる誰かを必要とするだろう])

・・・だから、しばらくは、目指せ「でくのぼう」で、きちんとしないことをきちんとやっていきたいと思います。
ぼんやり、ぼんやり。



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