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かなしいユーモア

かなしみとおかしみは、よく似ています。

哀しい運命を辿る人は、本人は真剣で苦しんでいるのでしょうが、はたから見ると、ユーモラスなところがあります。

このあいだ、つまらない映画を観ました。
内容は、簡単で、奥手の天才主人公が、幼なじみの女性を平凡な男に奪われてしまうけれど、ラストには女の子を取り戻してハッピイエンド・・・という、まあ、よくある展開です。
ただ、そのなかで、平凡な男が主人公に吐き捨てた、「俺は彼女にとってはNo.2だった。でも、No.2にだって良いレコードはあるはずさ」と言いながら、微笑して去っていくその様は、わたしには刺さりました。

彼は、もうその後、映画のなかには出てきません。
けれども、彼のかなしいユーモアにこそ、真実があるような気がしたのでした。

イスカリオテのユダだって、そうでしょう。
彼は、れいの裏切りのあと、イエスが死刑になると聞いて、びっくり仰天、裏切りの対価にもらった30枚の銀貨をぶちまけて、泣きながら縊死したそうです。
裏切り者にふさわしいといえばふさわしいのですが、微笑を浮かべ十字架に掛けられるイエスと対照的に、泣きながら銀貨をこぼして縊死するさまは、哀しい可笑しさを漂わせています。
彼のポケットには、昨夜イエスからもらったパンくずがそのまま入っていたことでしょう。それにはネズミも数匹、たかっていたはずです。
これもまた、哀しいユーモアです。

どうやら、時代を問わず、主人公になりきれなかった男には、哀しさと可笑しさが共存するようです。


写真:札幌駅の終電前






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