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がらんどうの記録

昨年、コロナの影響で延期を余儀なくされた「No. 1 Pure Pedigree」。

今年の5月に緊急事態宣言が出ることになるとは3月半ばの時点ではあまり思えなかったので、ギリギリまで感染症拡大の動向を見極めつつ、今年の5月に上演をすることにしていたのですが、再び緊急事態宣言が発令され、今年もまた、中止を余儀なくされました。


私は、(感染リスクをなるべく下げるためにも、)なるべく稽古場には行かないようにしていたので、結局、どういう作品だったのかもあまりよく分からず、中止になった実感が、今のところはあまりない。

いや、そもそも始まった実感すら、あったのか、自分の中には。
広報や会計の作業など、(研究業の合間をぬって)毎日少しずつ進めてはいたけれど、何か、狐につまされたような感じがする。


今回の事態に至り、再び多くの皆様方にご迷惑をおかけすることになる。心からおわびを申し上げる次第だ (記者会見より)


上演中止が決まってから、あちこちにお詫びの文章を書いたのだけれど、この件に関しては誰も悪くなくて、そうは思いつつ、何を伝えたらいいのかもよく分からず、頭を下げている。
きっとこの人もそうなのだろうと思う。

哲学者の國分功一郎さんがどこかでおっしゃっていたが、
「責任」とは、responsibility、response(応答)への可能性である。

だとしたら、お詫びも、責任と結びついている限りにおいて、何かしらの応答であるわけだけれども、私たちは何に応答しているのだろう。
要請に従ったという意味では、(あるいは、劇団の経済的な破綻を避けるために中止という判断をしたという意味では、)私たちには責任がある。

だけれど、私たちは何にresponseしたらいいのだろう。



この数日、私は存外、明るい。
いつも通り、よく笑っている。

こういうときは、なるべく暗い気持ちになったほうが良いのかもしれないと思いつつ、何に対して暗くなればいいのか、分からずにいる。
作品も、結局、どういうものが出来あがろうとしていたのか、全貌が掴めずにいるし、中止に関するいろいろな処理もPCの中で完結してしまうし、始まった実感も、終わった実感もないままに、公演がなくなってしまったことに、がらんどうな気持ちだ。

うまく言葉が見つからず、「悲しい」とか「苦しい」とか、Twitterなどには書かせてもらったけれど、ほんとうのところは、やっぱり、がらんどうな気持ちである。

たぶん、悲しむべきことではあるのだろうが、何を悲しんだらいいのか、よくわからず、私の中には、がらんどうだけがある。
気がつけば、空っぽになっていて、宙ぶらりんにされてしまった。


日本語には、こういう、どうしようもないことに直面したとき、お詫び以外の適切な語彙がないのかもしれないし、がらんどうに代わるような、適切な言葉も、今のところはないのかもしれない。


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(上演を実施する理由として、)
第二に、ぺぺぺの会は、文化・芸術は、「不要不急」に該当しないと考えているからです。
あらゆる文化も芸術も、それを人生の糧として生きている人がいます。
それゆえ、演劇は、不要でもなければ、不急でもありません。
学校が休みなり、街に遊びに出かける中高生を批判する議論が一部では見られますが、
彼らにとっては、街に遊びに出かけることが、円滑な人間関係を保ち、人生にとって重要なことの一つなのです。何が不要で、不急なのかは、一律に決められることではありません。
人それぞれに、重要・緊急があります。
私たちにとって演劇は、人生にとって決定的に重要なものです。
(それは、満員電車で通勤するサラリーマンにとって、仕事や、家で待つ家族のことが大切なのと、同じです。)
それゆえ、演劇は「不要不急」には該当しないという解釈です。

これは、昨年の上演中止決定前に、なんとか強行しようと書いたステートメントで、このステートメントのもと、強行を検討していたのだけれど、使える稽古場もなくなり、昨年は上演ができなかった。
(だから、このステートメントは、どこにも出さなかった)


文化芸術は、社会生活に必要不可欠なものである。

去年からずっと、このことを考えていたけれども、私たち日本人は、それを十分に示すための語彙を、いまだに持っていない。





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