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待つことしかできない

「待つこと」ができるすごさについて、以前noteを書いた記憶がある。
1年以上前だったのではないだろうか。


確かざっくりした内容は、「具合が悪いことが日常で、いつ倒れるか、いつ動けるようになるのかわからない私を、根気強く待っていてくれた母と親友には感謝と尊敬の思いがあふれて止まない」という感じだったと思う。
今でもこの気持ちは変わらない。


以前から、母にこのような思いを伝えると、「私は待つことしかできなかったから」と謙遜するように言うのだが、私にはそれがずっと不思議だった。だって、以前の記事でも書いたけど、「待つ」ってかなりすごいことじゃない?
「待っていてくれる人がいる」ことに私は救われたのだから。


ただ最近、私にもわかった。母は、謙遜して「待つことしかできない」と言っていたのではないのかもしれない。むしろ、「待つことしかできない」ことに、無力感を抱いてのこの言葉だったのではないだろうか。
その人の問題は、その人にしか解決できない。周りの人が支えたり、寄り添ったりすることはできるだろうが、乗り越えるのは本人だ。


というのも、私も最近、待つことしかできない自分の無力さにぶち当たる経験をしたから。私ができることだったら何でもしたい。その人が少しでも楽になれるように、笑顔になれるように。そう胸が痛くなるほど思うのに、決定打は本人にしか打てない。待つしかない。歯痒いというか、悔しいというか、いや、やっぱり「無力感」ということなんだろう。

母もこんな気持ちだったのだろうかと想像する。

しかし、もう一度書くが、私はその「待っていてくれたこと」に救われたのだ。

私も、解決にはなれなくても、そばにいることがその人の力になることを願って。

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