新聞記者から転職した理由

 転職の決め手は、どうしようもない閉塞感だった。大学を卒業して7年近く続けた新聞記者の仕事に僕はやりがいを感じていたし、書くことを通して「生きている」という手応えを実感することもできた。でも、この世界から一度離れてみたくなった。転職して間もなく半年。今の気持ちを綴っておきたい。
 きっかけは些細な会話だった。「実は公務員試験を受けてみようと思うんだよね」。2020年5月、勤めている全国紙で入社年次が二つ上の先輩から打ち明けられた。彼は東京経済部のエースで、対する僕は東京経済部に異動して2年目。年齢も近いだけでなく、「記者のタイプも似ている」(経済部長談)らしく、不思議と話の馬が合う先輩だった。そんな彼が転職活動を始めると聞いて、僕の中でも何かスイッチが押された気がした。
 転職が頭によぎったのは初めてではない。駆け出しから5年を過ごした支局時代に事件事故を担当していた頃は、いつも何かに追われていた。高速道路でマイカーを走らせながら「このまま壁にハンドルを切ったらどれだけ楽だろうか」と考えたこともあった。でも、昔から憧れた記者の仕事に就いたわけだし、何も残せないまま筆を折ることは嫌だった。支局3年目には良き師匠に恵まれたこともあって仕事が楽しくなった。全国面に記事が載る度に家族や友人に報告した。取材を受けてくれた方の人生の物語を伝え、そこに自分の署名が載る。それだけで「僕は今生きているのだ」と感じることができた。
 閉塞感が募り始めたのは東京に異動してからかもしれない。支局時代は目の前の現場に向き合いつつ、東京本社で働くことへの漠然とした期待感があった。それは大学を機に地方から上京する感覚に似ている。新天地へ向かうワクワク感と自分が新しい何かになれるような予感。そんな気持ちとは裏腹に、ひとたび生活が始まれば、「夢や憧れは叶うと『現実』になる」と思い知らされる。悪い部分や嫌な部分が異様に目につくようになるのだ。もちろん新たな分野の取材は勉強になったし、尊敬できる先輩や同僚との仕事は刺激的だった。でも、その一方で、この会社での自分のキャリアの先が見え過ぎてしまう。夜討ち朝駆けに時間を費やし、30代後半でキャップとなり、海外特派員になれるのは40歳過ぎ。その後はデスクになって、書き手の第一線から離れることになる。会社の経営状況に問題がなければ、文句のない人生だと思う。でも、実際はメディアを取り巻く環境は過酷で、取材費の削減やボーナス減額が続いている。海外特派員を目指しているのに、海外支局の閉鎖も相次ぐ。苦労した先に道が無いかもしれないと思うと、窮屈さが否応なしに押し寄せた。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い自宅で一人で考える時間が増えたことも相まった。「この閉塞感を何とか打破したい」。そんな思いは日に日に増していった。
 先輩からの転職開始発言に加え、影響を受けた一つの出来事がある。2020年6月、大学時代の友人の訃報が届いた。享年28。あまりに早過ぎる死だった。彼は大学時代に所属した合唱サークルの同期だった。不真面目だった僕は大学2年生でそのサークルに行かなくなったから、会話したのは数える程しかない。訃報を聞いた後も実感は持てなかった。同い年の友人が胃がんで亡くなる現実をどう受け止めていいか分からない。そんな僕が告別式に参加してもいいのかと正直迷った。でも、世界の有り様が大きく変化する中で、一つの若い命が失われたことの意味を自分なりに咀嚼しなければいけないと思った。告別式には、そのサークルでコンサート用に皆で買った黒の礼服を着て行った。
 コロナ禍の告別式というのは、遺体が安置された場所に入れる人が限られている。僕は焼香の番が来るのを、合唱サークルの演奏会の音源を聴きながら待っていた。ブルーのネクタイに、かすかに笑みを浮かべた遺影を見ると、彼との会話が蘇った。
 大学1年生の昼休み、部室で顔を合わせたことがあった。気まずさに耐えかねて、何気なく尋ねてみた。「大学卒業後は何やりたいの?」。彼は「学校の先生」と即答した。告別式で初めて知ったのは、彼がその夢を叶えて高校教師になっていたことだった。喪主である父は「息子の夢は教師になることでした。小学生の時は小学校の先生、中学生では中学校の先生になると言っていたことが思い出されます。美味しいものとおしゃれが大好きで、見栄っ張りで生意気で、わがままだけれども、心優しき息子に今までありがとうと言います」と涙をこらえながら語った。僕は告別式当日のメモ帳に僕は赤ペンでこう書きつけた。〈人はいつか死ぬし、その死は急に訪れる。僕は明日死んでも後悔しない生き方ができているだろうか?〉 
 世界に出てみたかった。これまで日本で生まれ育ち海外経験が乏しい僕にとって、今ある閉塞感を打ち破るにはそれしかないと思った。外資系IT企業の記者会見で、通訳がいるのに英語でバンバン質問する他社の記者に憧れた。日本語ではできる仕事なのに、英語になると何もできなくなることが悔しかった。その日は「英語の勉強がんばるぞ」と決意しても、基本的に怠惰な性格である僕は、必要に駆られないと決意が長続きしない。そんな日々を繰り返す自分の弱さに腹が立った。 その頃からノートに書き留める内容が少しずつ変わっていった。大学生の時からいつも持ち歩き雑多なアイデアや日々の思いを綴っているモレスキンのノート。取材アイデアと転職活動の準備に関する内容が入り乱れるようになった。「問題解決と伝えるの両方ができるようになりたい」。そんなもっともらしいことを言った。嘘をついたわけじゃないけれど、本音を言えば、転職の理由は閉塞感の打破に他ならない。僕はこの社会を自由に泳ぎたくて、一つの組織にしがつみかなくても済むように、個人としての力をつけたい。ただ、それだけだったのだと思う。
 今は縁があって、国際協力の世界に身を置いている。この仕事が向いているのかどうかは正直分からない。日々の作業をこなすのに精一杯だからだ。でも、伝えること、書くことは僕のベース部分であるのは間違いないと改めて感じている。これからも現場に立ってペンを握る人であり続けたい。

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