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きみって、不思議な人だよね

私は昔から「なんかきみって不思議だよね」と言われることが多かった。
6年前くらいまでは不思議と言われることが嬉しかった。
15歳くらいまでは、結構本気で不思議くんを目指していた。

私の父も見方によっては不思議な人で、変な人である。でも、それで人を笑わせることが多い人でもある。
私が小学生の頃、たまたま先生として同じ学校に居た父が、学校の上に開く大きなリサイクルボックスに白と黒の丸い画用紙を貼り付けて「ぱっくん」とか名付けて、誰かに言うわけでもなく影で楽しんでいた。
ノートの表紙に細いボールペンでロボットの絵を細かく書いて、一人で満足そうに持っていたり、ホールケーキを1個まるまる食べてみたくなったらしくて、誕生日に1人で食べて熱を出した話をケラケラ話してくれたりした。

なんでそんなことを思い浮かぶのかな?と思うようなことを、軽快にやる。しかもそれは仕事や趣味に直接繋がるものではない。でもすごく面白そうにやっている。そして、実際おもしろい。

その姿がものすごくかっこよかった。

だから私もそのポジションを目指すべく、何を考えているのか良くわからないけど表現するものが面白い人になろうとした。だから不思議な人を目指してみた。
けれど、今人として得ているのは「側」だけだとわかった。

私は「不思議で面白い人」になるために、人がやらないことをやろうとしてみたり、人と違う動きをしてみたりした。10年くらい。
そうしたら、最終的にそれが癖になり、何かに困った時に出す切り札になり、すがるものになった。今は一切不思議な人を目指していないのに、不思議な人だと言われるまでになった。

私のことを「不思議だ」という人の多くは、私が高度なことを考えているからだと言ったり、“普通の人”とは思考のプロセスが違ったりすると考えたりする。だから、私が“普通の人”と同じところで悩んだり失敗すると、親近感が湧くとか言う。

実際は不思議ってなんだろうと考えて、不思議を真似して、その空洞の不思議がそこにあるだけなのに。
そんな、今となっては不思議という表面だけの表現は本当の「可笑しい」につながらないのを知っている私からしたら邪魔なものがそこにいるだけなのに、それが私の人となりを作ってしまっている。
それが怖い。

思えば父は、自分が面白いな、やってみたいなと思ったことを素直にやってきた人であった。それが誰かから見た時に不思議な光景であり面白い光景であったに過ぎない。

不思議な人、面白い人、すごい人、偉い人と、なんとなく枠となる人の表現はたくさんあるけれど、それ自体はただその人の表面の膜に過ぎない。
そしてその言葉を目指すことは、人の表面の膜を自分に着せること、いわば顔の出た着ぐるみに過ぎない。

私は父のような軽やかに表現できる人間ではないからこそ、不思議の着ぐるみをゆっくり脱いでゆきたいと思う。

多分そのほうが、なりたい自分に近づける。


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