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足立実の『ひと言』第50回 「訪中団のめざすもの(第一次訪中団)」 1988年8月10日

 八月十一日から十一日間、東部労組として初めて訪中団を出す。みんなが闘いにあけくれているとき、執行部の大多数が行くのだから、より組合員の利益にかなうと判断したのである。
 私たち労働者が、どうすれば矛盾だらけの現代社会を改革し、子々孫々まで幸せにくらせるようにできるか。これは私たちのいちばん関心のある問題である。
 自民党政府の「行政改革」とか「教育改革」などではダメで、政治の根本的改革が必要なのだと、みんな考えていると思う。
 むかし人々はソ連を労働者の天国だといい、そこに未来を夢見た時代があった。私自身そうだった。その後米ソで世界を支配したり、チェコ・アフガニスタンその他の国に干渉するのを見て、その夢はあせた。
 人々の期待が中国のプロレタリア文化大革命にあつまったこともあったが、これも中国自身によって否定された。
 「連合」のボスどもは、それ見たことかと、「社会主義はダメだから自由世界=資本主義を守れ」というが、彼らのやって いることを見れば、労働者の権利を奪い、資本家の奴隷にすることばかりである。
 とにかく、中国は労働者階級が指導する人民の国である。私たちは日本と中国の労働者のちがいをしっかり見てきたい。搾取階級の支配をどうくつがえし、社会改革をしたかもしっかり知りたい。
 そして私たちが労働者の利益を守り、自由で幸福な日本をつくるために、どのように努力すればよいかを、みんなといっしょに見出すことに役立てたい。 (実)

(画像は中国の天安門。毛沢東の肖像と「中華人民共和国万歳」「世界人民大団結万歳」のスローガンが掲げてある)

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注釈

・「行政改革」
国や地方公共団体の行政機関の組織や機能を改革すること。主に、財政の悪化や社会の変化に対応して、組織の簡素合理化、事務の効率化、職員数や給与の適正化などの形で行われる。
『ひと言』第14回 「敗戦記念日に」参照https://note.com/minoru732/n/n2a996a30a999

・「教育改革」
『ひと言』第12回 「学校へ行こう」 参照https://note.com/minoru732/n/n2fe57f8802c4

・ソ連
ソビエト社会主義共和国連邦の略称。
現在のロシア共和国を中心とした世界の陸地の約六分の一を占めた社会主義共和国の連邦国家。十月革命後の1923年に、ロシア連邦、ウクライナ、白ロシア、ウズベク、カザフ、グルジア、アゼルバイジャン、モルダビア、リトアニア、キルギス、ラトビア、タジク、アルメニア、トルクメン、エストニアの15の共和国から成る多民族国家として成立。首都はモスクワ。経済は生産手段の社会的所有に基礎をおいた国家の一元的統制による計画経済で、数次の五か年計画で工業が発達、農業はコルホーズ・ソフホーズを単位に集団労働が行なわれた。1991年崩壊後は、バルト三国とグルジアを除いて独立国家共同体を形成した。

・「その後米ソで世界を支配」
いわゆる第二次大戦後の米ソ両国間および両国を中心とする二大勢力の対立状態である「冷戦」を指す。
実際の戦争手段にはよらないが、背後に核兵器をかかえた〈恐怖の均衡〉状態で、単なる国家的対立ではなく、資本主義と共産主義というイデオロギーの対立でもある。1991年のソ連邦解体により終結したといわれる。

・「チェコ①・アフガニスタン②その他の国に干渉」
①チェコ事件
チェコスロバキアの自由化政策 (プラハの春) に対して1968年8月にソ連などが行なった軍事介入事件。
参考

【プラハの春】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%81%AE%E6%98%A5

②ソ連のアフガニスタン侵攻
1979年12月、ソ連軍はアフガニスタンへ侵攻した。ソ連は前年調印した友好協力善隣条約に基づくアフガニスタン政府の要請によるとして首都カブールを占領、アミン大統領を殺害し、親ソ派のカルマル政権を擁立した。しかし、反政府派の激しい抵抗と厳しい国際的非難を受け、1989年に全面撤退した。
参考

【アフガニスタン紛争】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%B4%9B%E4%BA%89_(1978%E5%B9%B4-1989%E5%B9%B4)

・中国のプロレタリア文化大革命
1965年秋に中国の国家首席毛沢東が発動し、1976年まで中国で展開された「資本主義の道を歩む実権派(走資派)打倒」をスローガンとする政治闘争。「大躍進」政策の失敗後、劉少奇・鄧小平らによる調整政策が実施されるが、毛はこれを修正主義と見て、林彪国防相と結んで軍を味方につけながら奪権闘争で打倒し、その際に青少年を“紅衛兵”に組織して実権派批判に向けた。「四旧」(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)打破をかかげて打ち壊しが行われ、著名な学者・芸術家らも攻撃された。
1976年9月の毛沢東の死を契機に、文革は実質的に終わった。間接の被害者も含めて死者2000万人に及ぶといわれる文革を、中国共産党は1981年の中央委員会で「指導者が間違ってひき起こした内乱」として全面的に否定した。
参考

【文化大革命】https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD

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1988年8月、筆者の指導する東部労組が執行部を中心に訪中団を組織して訪中した。訪中の目的は「①社会主義の実態を見てわれわれの将来を考えること②日本軍の侵略戦争の実態を認識すること」である。(筆者執筆の別のパンフレットによる)

訪中先は上海・南京・西安・延安・北京。

中国は筆者が青年時代を過ごした土地であり、中国共産党の作風に触れた場所である。

ちなみに、この訪中の翌年1989年6月4日、民主化を要求し、北京の天安門広場で座り込みを続ける学生や市民を政府が武力で弾圧される天安門事件が起きている。

コラムには「とにかく、中国は労働者階級が指導する人民の国である」と書かれているが、現在の中国を見たら筆者は何と評価するのだろうか?

この後も筆者の組合は三次にわたり「訪中団」を組織した。

管理人も1998年の第三次訪中団に参加し、筆者と共に中国を訪れている。

その時は中国の元最高指導者鄧小平氏が亡くなった翌年で、鄧氏の「改革解放政策」を引き継いだ江沢民国家首席が市場経済化を推進している真っ最中であり、私営企業の経営者を党に取り込む方針を打ち出し、社会主義国家にも関わらず中国の「資本主義化」が進行している時期であった。

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