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足立実の『ひと言』第12回 「学校へ行こう」 1984年6月10日

 誰だって子供は可愛い。自分の子が平時には資本家の忠実な奴隷、戦時には侵略の特攻隊や戦争未亡人になるような学校教育をされたのではたまったものでない。
 予科練の申込みに反対する父を、「非国民」という目でにらんでから四十年たったが、いま労働組合活動家を、子供が「非国民」という目でにらむような学校教育が企らまれている。
 中曽根の教育臨調がそれだ。
 自民党は子供たちを自分の側のとりこにするため、ずっと学校教育に干渉してきた。 教師の勤務評定(勤評)、主任制、日教組弾圧、教科書検定、日の丸、君が代などなど。その総仕上げを一挙に急ぐのが教育臨調である。
 もちろん、教師の協力がなければ反動教育は成り立たない。だから自民党、文部省、PTAの一部反動分子らは、あの手この手で教師を攻め協力を強要している。教師はこれに屈せず、真理を堅持してがんばってほしい。敗戦後、戦争に協力した教師は教え子に土下座して謝ったが、そういうことを断じて繰り返してはならない。
 私たち労働者もまた、中曽根政権の反動攻勢に政治闘争をもって反撃するとともに、子の親として、父母参観や家庭訪問、PTAなどに自ら参加し、教師やPTAの一部反動分子の悪企みを封じ、良心的教師を支持する必要がある。(実)

(画像は1984年8月、総理府で臨時教育審議会の看板を掛ける中曽根康弘首相。左は森喜朗文相)

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背景

「教育臨調」とは「臨時教育審議会(臨教審)」の通称で、これは1984年に教育改革に取り組むことに意欲を示した当時の中曽根首相が内閣総理大臣直属の審議機関として設置した審議会。

臨教審は3年間継続し、この間第1次~第4次の4回にわたって首相に答申を提出した。

臨教審では「教育の自由化」が主張され、その後の新自由主義的・市場主義的な教育改革の端緒になったとされており、また、官邸主導・政治主導の教育政策立案という流れが作られ、その後日教組は弱体化した。

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当時の中曽根首相が設置した臨教審=教育臨調について民主教育を破壊し戦前の反動教育に戻すものであると厳しく批判している。

筆者は「予科練(注)の申込みに反対する父を、『非国民』という目でにらんでから四十年たったが」と書いているが、自身の「軍国少年」となった戦前の教育についての経験からもその反動性を強く主張しているところに説得力がある。

このコラムを読む限りでは筆者の父親は当時反戦の考えをもっていたとも受け取れる内容である。

注・予科練

旧日本海軍の海軍飛行予科練習生の略。航空機搭乗員の大量養成をねらいとして、1930年霞ヶ浦飛行場 (茨城県) に開設。太平洋戦争末期には特攻隊要員の訓練を行なった。

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